白衣の天使3.


 

 

 由佳の住むマンションは、夏美たちのマンションより少し都心寄りの駅から

徒歩三分の場所にある。車で行けば十五分足らずの距離なのだが、乗換が

ない分都心へも一時間とかからないし、商店街も大きくて夜遅くまで開いてい

る。夏美も本当は、そういうマンションに住みたいと思っていたのだ。便利さこ

そ、マンションライフの最大の利点だと思っていたからだ。

 けれども、夏美の希望は修一郎にあっさり却下されてしまった。理由は、そう

いうマンションは繁華街にあるので環境が悪い、高層型なのでどんな人が入

居するかわからない、おそらく騒音にも悩まされるだろう……。その時は夏美も

納得したのだが、今考えてみると随分勝手な理由だと思う。仕事のことだけ

考えていればいい修一郎には、通勤や買い物の大変さなど大して苦にならな

いのだろうから。

 マンションの前でタクシーを降り、夏美は十二階建ての大きな建物を見上げ

た。淡いグレーの建物が、そびえるように建っている。何だか住まいというより

は、ビルディングという言葉の方が近いような気がする。規則正しく並んだ窓

の灯も、気のせいか白々とした光のように見える。でもそれが、マンションライフ

の象徴なのだと夏美は思った。

 由佳の部屋は、十階の東南の角から二軒目にある。日当たりと見晴らしの

良い、快適な部屋だ。そこで由佳は、理解のある夫と二人で理想的な生活

を送っている。

 エレベーターを降り、通路を歩いて行って1007号室のインターホンを押す。

すぐに扉が開き、由佳が顔を覗かせた。

「いらっしゃい」

 長い付き合いだから、こちらが何も言わなくてもだいたいの気持ちはわかって

くれる。由佳はちょっと頷くような仕種をしてから、

「さ、入って」

 と迎え入れてくれた。

「遅くにごめんね」

 そう言いながらも、夏美はほっとした思いでスリッパに足を突っ込んだ。さっき

タクシーに乗る前にハンバーガーショップに寄っただけで、今日は帰ってからま

だ一度もゆっくり休んでいなかった。

「適当にその辺へ座ってて。今、コーヒー入れてるから」

 由佳の声に誘われるようにして中へ入って行くと、

「今晩は」

 キッチンで声がした。はっとして立ち止まると、由佳の夫の雅人だった。エプ

ロンをかけ、泡の立ったスポンジで食器を洗っている。

「あ、すみません。こんなに遅くにおじゃましちゃって」

 夏美は雅人の存在に気付かなかったことより、そんな姿を見てしまったこと

の方が悪いような気がして急いで頭を下げた。

「ああ、気にしないで下さい。うちはお互い干渉しないことにしてますから」

 雅人のほうは気にする様子もなく、そのまま食器洗いを続けている。よく見る

と、お皿はお皿、茶碗は茶碗と、きちんと分けて洗っている。洗い方も手際が

良く、そのくせ決して雑ではない。一度や二度手伝ったぐらいでは、こうはいか

ないだろう。

「何してるのよ夏美、早くこっち来て座りなさいよ」

 由佳の呼ぶ声がして、夏美は慌ててリビングルームへと入っていった。

「ねえ、吉沢さんていつもあんなことしてくれるの?」

 ソファに腰を下ろしながら、夏美は小声で訊ねた。

「あんなこと?」

 由佳はきょとんとしながらキッチンの雅人に目を向けて、

「ああ、後片付けのこと? そうよ、今週の炊事当番は雅人だから。その代わ

り、来週は私が当番になるんだけどね」

 と言う。

「由佳って本当に何でも分担してるんだねえ」

 夏美は感心したように言った。話には聞いていたが、ここまで徹底していると

は思わなかった。

「当たり前じゃない。私たちは最初から、そういう約束で結婚したんだから」

 由佳は平然としている。この様子だと、本当に何から何まできっちり割り切っ

てやっているのだろう。ひょっとしたら夜の生活の方も、チケット制にでもしてい

るのかもしれない。夏美は何だか、来るべきところを間違えたような気がしてき

た。

「それはそうと、夏美、橋本さんと喧嘩したんでしょう」

 何もかもお見通しよ、という口調で由佳が言った。

「うん、まあね」

 夏美は頷くしかなかった。

「やっぱりねえ、いつかはこうなるんじゃないかと思ってたのよ。橋本さん、横暴

すぎるもの。今時母親だって、そこまで面倒みないわよ。自分のストレスぐらい、

自分で何とかしろって感じよね」

「そうでしょう?」

 夏美は急に勢いづいて言った。

「修ちゃんたらひどいのよ。私が残業で疲れてるの知ってて、例の発作起こす

んだもの。おまけに、少しは俺の気持ちもわかれとか、女は気楽でいいなんて

言っちゃって……あんまり頭に来たから、飛び出して来ちゃった」

「そんなこと言うの? だからメンズヘッドは単純にできてるって言いたくなるのよ

ね。今まで我慢してこれたのが、不思議なぐらいだわ。言っとくけど、これは褒

め言葉じゃないわよ」

「……うん」

 由佳の鋭い一撃が飛んで来て、夏美はまた小さくなってしまった。

「まあ、そこが夏美のいいところでもあるんだけどね」

 由佳はちょっと笑って見せてから、すぐに真顔に戻って言った。

「だけど、今度こそ有耶無耶に終わらせちゃだめよ。しばらく実家へでも帰って、

様子を見ることね。それでもわからないようだったら、もう離婚を考えた方がい

いかもしれないわ」

「え?」

 夏美は驚いて目を見張った。いくら何でも、そこまでは考えていなかった。

「そんなにびっくりすることないじゃない。私は前から、一度は夏美に言いたいと

思ってたんだから」

 待ち構えてでもいたように由佳が言った。

「橋本さんて、悪い人じゃないと思うわよ。夏美の話からすると、仕事もできる

みたいだし、結構おちゃめなところもあるみたいだから……。だけど、夏美のこと

はちっともわかってないのよね。もしわかってたら、女は気楽でいいなんて言うは

ずないと思うもの。違う?」

「……ううん、違わない」

「でしょう? だったら何も、無理して一緒にいることないじゃない。いくらいい人

だって、夏美のことわかってくれないなら一緒にいる意味ないもの。私だったら、

さっさと別れてもっとわかってくれる人探すわよ」

 確かにそれはそうかもしれない。夏美がいつも腹が立つのは、その食い違い

のせいだった。修一郎と喧嘩をする度に、どうしてこんなこともわかってくれない

のだろうと、腹立たしいのを通り越して悲しくなってしまう。そして、つい思ってし

まうのだ。こんなはずじゃなかったと 。

 けれども、由佳は肝心なことを忘れている。夏美は修一郎のことが好きなの

だ。好きだからこそ腹が立つのだ。好きでもない男に、誰が本気で腹を立てた

りするだろう。

「はい、コーヒーが入りましたよ」

 雅人がアイスコーヒーのグラスを乗せたトレーを運んで来た。

「あ、すみません」

 夏美は弾かれたように立ち上がり、トレーを受け取ろうと両手を差し出した。

もうエプロンははずしていたが、友達の夫にコーヒーを運んでもらうのはやはりち

ょっと気が引ける。

「いいのよ夏美、今週は雅人が当番だって言ったでしょ」

 由佳が怒ったように言う。

「でも……」
「いいんですよ、座ってて下さい」

 雅人に穏やかに言われ、それ以上立っているわけにもいかなくなり、夏美は

手を引っ込めてソファに腰を下ろした。

 雅人はトレーをテーブルに置き、グラスやミルクピッチャーなどを並べていく。

またその手つきが優しげで、嫌々しているという感じが少しもしない。夏美は恐

縮しながらも、何か気恥ずかしさを感じずにはいられなかった。喫茶店やレスト

ラン以外で、男の人にこんなことをしてもらうのは始めてだ。雅人がトレーを持

って立ち上がった時には、ほっとしたような気持ちだった。

 これでやっと落ち着いて話ができる そう思った時、

「ありがと、もういいわよ」

 由佳が雅人に言った。まるで、用がすんだらさっさと出ていけと言わんばかり

だ。

「そんな追い立てるみたいに言わなくても……」

 夏美が取りなそうとすると、

「いや、いいんですよ」

 雅人はにこやかに言い、

「じゃあ夏美さん、ゆっくりしていって下さい」

 さっさとリビングルームを出て行った。

 夏美は口を開けたまま、由佳の顔を見つめてしまった。何が何だかわからな

かった。雅人にも話を聞いてもらい、男の人の意見も聞いてみたいと思ってい

たのだ。おそらく修一郎なら、邪魔だと言われても話を聞こうとするだろう。

「俺も仲間に入れてよ」

 とかなんとか言いながら。

「食事の後は、部屋にこもってパソコンに向かうのが日課になってるの」

 グラスにミルクを入れながら由佳が言った。

「ブログってやつ? 最初は読むだけだったんだけど、最近自分でも始めたか

ら寝るまでそれに夢中らしいわ」

「一緒にTV見たり、お酒飲みながら喋ったりしないの?」

「それは食事の時にしてるわよ。後はプライベートな時間だもの、何をしようと

雅人の勝手じゃない」

「由佳、それで淋しくない?」

 余計なお世話だとは思いながらも、そう聞かずにはいられなかった。修一郎

がそんな夫だったら、夏美は一週間と我慢できないだろう。

「別に。おかげでこっちも好きなことしてられるから、かえって気楽でいいわよ」

 その言葉が嘘でないということは、由佳の顔を見ればわかる。自分の生活ペ

ースを守ること それが、この二人にとって一番大事なことなのかもしれない。

相手の気持ちに左右され、怒ったり笑ったりするような生活は、さぞかし馬鹿

馬鹿しく見えることだろう。

「それで、橋本さんとのことはどうするの?」

 アイスコーヒーが半分程減ったところで由佳が訊ねた。

「実家へ帰りづらいなら、しばらくうちに泊まってもいいわよ」

「悪いけど、やめとくわ」

 夏美はできるだけさり気なく、けれどもはっきりした口調で言った。由佳が驚

いたようにこちらを向いた。

「いいってどういうこと? まさか、このまま元に戻るつもりじゃないでしょうね」

「そういうことじゃないよ。ただ、もうちょっと考えてみたいと思うだけ」

「だからそのためにも、別居した方がいいんじゃない。一緒にいたら、冷静に考

えられないでしょう?」

 由佳の口調がきつくなった。

「うん、でもやっぱりいいよ。心配してくれたのに、ごめん」

 夏美は首を竦めて謝った。どういうわけか、夏美は由佳に説教される運命

にあるらしい。由佳は怒ったような顔で黙り込んでいたが、そのうちふっと表情

を崩して言った。

「全く、これだから橋本さんに甘く見られちゃうのよね。何だかんだ言ったって、

結局は自分のところへ戻って来るって思わせてるようなものなんだから」

「……わかってる。でも、今度だけはそう思わせないようにするつもり」

「まあ、せいぜい頑張ってちょうだいよ。私はもう、何も言わないから」

 最後はいつもの調子に戻って幕を閉じた。