白衣の天使4.


 

 

  玄関を出る時、雅人が部屋から出て来た。

「またいつでも遊びに来て下さいよ」

 相変わらず、穏やかな笑顔だった。夏美は二人に見送られ、由佳の部屋を

後にした。エレベーターに乗り、徐々に下へ降りて行く。一階でエレベーターを

降り、玄関ホールを通り抜けてマンションの外へ出た。夏美はちょっと立ち止

まり、ふうっと大きく息を付いた。やっといつもの自分に戻れたという気がした。

 これからどうしよう 駅に向かって歩きながら夏美は考えた。時計を見ると、十

一時を少し回ったところだ。他の友達の顔を思い浮かべてみたが、この時間で

は迷惑だろう。実家へ帰れば大事になってしまいそうだし、一人でホテルに泊

まるような惨めなことはしたくない。それに、明日は今日インプットした分のエラ

ーチェックがあるので、会社を休むわけにもいかない。考えているうちに、駅に

着いてしまった。

 丁度電車が着いたところらしく、改札口から連なるように人が出て来た。軽

やかとはいかないまでも、みんな足取りはしっかりしている。帰るべき場所に向

かって、一直線に歩いているという感じだ。行き場がないのは自分だけのよう

な気がしてきて、夏美は急に心細くなってきた。

「お嬢さん。こんなところでぐずぐずしてたら、いつまでたってもタクシーに乗れな

いよ」

 突然後ろから声をかけられた。振り向くと、サラリーマン風のおじさんが立っ

ていた。年は五十歳ぐらいだろうか。ほろ酔い気分らしく、赤い顔で妙にニコニ

コ笑っている。いつもは酔っぱらいなど相手にしないことにしているのだが、

「あ、はい……」

 何故か素直に返事をしてしまった。おじさんは気を良くしたらしく、タクシー待

ちの列に並んで、

「こっちこっち」

 と手招きをする。今更無視するわけにもいかなくなり、夏美はとりあえず列に

並んだ。

「お嬢さんはこれから家に帰るの?」

 おじさんは嬉しそうに話しかけてくる。お嬢さんて年でもないんだけどなと思い

ながらも、訂正するのも面倒なので黙って頷いていた。

「こんなに遅くなったら、お父さんやお母さんが心配するよ。せめて十時までに

は帰らなくちゃ。実はうちにも、お嬢さんぐらいの娘がいてねえ。これが毎日夜

中まで遊び回ってて、ちっとも家にいやしない。親の言うことなんか聞こうともし

ないし、全く近頃の娘っていうのはどうなっているのかねえ」

 おじさんの口調が愚痴っぽくなってきた。夏美に話しかけるというよりは、大き

な独り言を言っているという感じだ。

「これでも僕は、娘を育てるために必死で働いてきたつもりだよ。上司から怒鳴

られ、部下から嫌味を言われても、娘のためだと思うから頑張ってきたんだよ。

それが年頃になった途端、“うるさいわね、ほっといてよ”だからね。父親なんて

哀れなものですよ」

 おじさんは本当に悲しそうな顔になって言う。周りの人にも聞こえているはず

なのに、みんな打合せでもしてあるみたいに知らんぷりを決め込んでいる。夏

美も適当に聞き流していたのだが、あんまりしつこいのでつい声をかけた。

「でも奥さんがいるじゃないですか。奥さんならきっと、おじさんの気持ちわかっ

てくれてるんじゃないですか?」

「奥さん? だめだめ、あんなの」

 おじさんは苦笑いしながら手を振った。

「あいつは俺のことなんか、全然相手にしてないもの。たまに早く帰ったら、“あ

ら、もう帰ってきたの?”だもんね。嘘でもいいから、“今日は早くて良かったわ”

ぐらい言えないもんかと思うよ。そうすりゃこっちだって、わざわざ高い金払って

外で酒飲んだりしなくてすむのにねえ」

 おじさんの口調は、ますます愚痴っぽくなっていく。

「昔はあいつも、あんなんじゃなかったんだよ。僕が早く帰ると、すごく嬉しそうな

顔してね。その顔が見たくて、こっちも何とか早く帰ろうとしたもんだよ」

 そう言うと、おじさんはちょっと照れ臭そうに笑った。

「だけどね、それじゃあ会社は勤まらないのよ。仕事だけしてればいいってわけ

にはいかないんだから。上司に誘われれば断れないし、部下の面倒だってみな

くちゃならない。それは、サラリーマンにとってはどう仕様もないことなんですよ。

その辺のところを、あいつはちっともわかろうとしないんだ」

 おじさんの話は、いつまでたっても終わりそうにない。夏美は逃げ出したいよう

な気持ちだったが、そっぽを向くこともできないでいた。おそらくこのおじさんには、

もうこんなふうに愚痴を言うことぐらいしか、胸の中の鬱屈を晴らす方法がないの

だろう。そう思と、このはた迷惑なおじさんがちょっと可哀そうになってきたからだ。

「ねえお嬢さん。お嬢さんだってそう思うでしょう?」

 おじさんは呂律の回らない口調で、何度も同意を求めてくる。夏美はひたすら、

早くタクシーの順番が来てくれることを祈った。

 一人二人と前に並んでいる人が減り、ようやく順番が回ってきた。

「あ、次ですよ」

 夏美がほっとしながら道路の方を指差すと、

「え、そう?」

 おじさんはびっくりしたように顔を向け、キョロキョロ辺りを見回している。自分

がどこにいるのかさえ、よくわからないようだ。だから酔っぱらいは嫌なのよ…

…口の中でそう呟いた時、急におじさんがこちらを向いた。

「いや、今日は本当にありがとう。お嬢さんに話を聞いてもらえて、おじさんは

嬉しかった。きっとお嬢さんは、いいお嫁さんになれると思うよ。男には、話を聞

いてくれる奥さんほどありがたいものはないんだからね」

 タクシーがやって来た。

「いいから乗りなさい」

 おじさんは無理やり夏美を前に押し出して、順番を譲ってくれた。行き先を

考えている暇もなく、夏美は自宅の住所を口にした。ドアが閉まり、タクシーが

発車した。後部ガラスから振り返って見ると、おじさんは力尽きたように首を垂

れ、今にもよろけそうな格好で立っていた。夏美はその姿が見えなくなるまで、

じっとおじさんを見つめていた。

 深夜の道路は空いていて、大して時間もかからずに帰り着いてしまった。料

金を払うと、タクシーはすぐに方向転換をして走り去った。一人取り残された

夏美は、歩道に佇んで辺りを見回した。恐いぐらいの静けさが身体を包み込

んだ。家々から漏れる灯もほとんどなく、人がいる気配さえ感じられない。時折

表通りを走る車の音が、微かに響いてくるだけだ。

 夏美は目の前のマンションを見つめた。五階建てのこじんまりとしたマンショ

ンで、樹木の多い住宅地の中に溶け込むように建っている。始めてここを見に

来たのは、去年の秋だった。修一郎も夏美も一辺で気に入り、すぐに購入申

込書を書いた。結婚してから二年間、海外旅行に行くでもなく、欲しい物もな

るべく我慢してやっとそこまでこぎつけたのだ。

 帰り道、修一郎が呟くように言った。

「とうとうやったね」

「うん」
 夏美はこくんと頷いた。

「マンション買って嬉しい?」

「嬉しい」

「少しは俺のこと見直した?」

「見直した」

 夏美は子供みたいに反復しながら何度も頷いた。修一郎は嬉しそうに顔を

綻ばせ、夏美の頭を抱え込むようにして腕を回した。夏美も目を閉じて、修一

郎の胸に頭を押し当てた。二人の体温が一つになり、そしてまたそれぞれの

身体へと染み渡って行くのがわかった。

 夏美は意を決したように、マンションへ入っていった。やっぱり、自分の居場

所はここしかないと思った。喧嘩ばっかりしている夫婦だけど、怒りをぶつけら

れるということは、それだけ甘えられるということなのかもしれない。夏美が修一

郎の白衣の天使なら、修一郎は夏美にとっての白衣の天使だ。いや、男だか

ら白衣の看護士かな? 夏美はクスッと笑ってしまった。

 三階でエレベーターを降り、コの字型に曲がった通路を歩いて行く。305と

いう部屋番号の下に、HASHIM0T0というネームプレートがついている。夏美

はそのプレートを見つめながら、息を吸い込んだ。そしてドアを開け、元気良く

言った。

「ただいま!」

 部屋の中は真っ暗だった。