夜の住宅地はひっそりと静まり返っていた。街灯の灯が届く範囲は狭く、そ
の下に虫たちが舞うように飛んでいる。鬱蒼と繁った木々の葉から、夏の夜独
特のむせ返るような匂いが漂ってくる。夏美は脇目も振らず歩いていた。どこ
に行くというあてがあるわけではなかったが、歩かずにはいられなかった。
悔しくて、悲しくて、情けなかった。修一郎と結婚して三年余り、これでも夏
美はできるだけのことはしてきたつもりだ。仕事で疲れている時も食事は家で
作るようにしていたし、レトルト食品などもなるべく使わないようにしてきた。掃
除や洗濯だって滅多に手伝わせたことはなかったし、どうでもいいような仕事
の愚痴にも辛抱強く耳を傾けてきた。 確かに性格は、控え目な方とはいえな
いかもしれない。違うと思えば反論するし、腹が立てばきつい言い方をすること
もある。それは自分でも認める。でも、だからといって修一郎の気持ちを考えて
いないわけではない。どんなに腹を立てていても、越えてはいけないラインという
ものを自分のなかで守っていたつもりだ。それが夫婦というものだと思っていた
からだ。
けれども、修一郎にはそんなラインはないらしい。あんなことを言われたら妻
がどんな気持ちになるか、ちょっと考えればわかりそうなものなのに。それとも、
もうそんな気遣いをするほどの愛情も、なくなってしまったということなのだろうか。
夏美の目に涙が浮かんできた。一体いつから、修一郎はあんな男になってし
まったのだろう。結婚する前は、あんなに頼もしくて思いやりのある人だったの
に。あの頃の修一郎は格好良かった。できないことなど何もないという感じで、
この人についていけば間違いないと信じて疑わなかった。
二人はいわゆる社内結婚で、夏美が入社二年目に修一郎のいる営業部
へ異動した時に知り合った。それまで総務の仕事をしていた夏美は勝手がわ
からず、簡単な仕事でもミスをすることが多かった。同僚たちも、総務部と比
べて横柄な人ばかりのような気がしてなかなか溶け込めなかった。気持ちがだ
んだん落ち込んでいき、退職することさえ考えた。その時、声をかけてくれたの
が修一郎だった。
「小田さん、この頃元気ないみたいだけどどうしたの。気分転換に飲みにでも
行こうか」
正直言って夏美は驚いた。修一郎とは、同じ営業部の社員として毎日顔を
会わせていても、個人的に話をしたことなどなかったからだ。それでも夏美が誘
いを断らなかったのは、会社の先輩という安心感と、夏美の中に誰かに話を
聞いてもらいたいという気持ちがあったからかもしれない。その頃の夏美は、落
ち込んでいただけに頑になっていて、友達に相談することもできなかったのだ。
「小田さんはまだ営業部のことあんまり知らないだろうから」
修一郎は、夏美が新しい部署になじめずにいるのを察していたらしく、今まで
あった出来事をいろいろ話してくれた。それは、忘年会で課長が頭にネクタイ
を巻いて椅子の上でチャゲアスのナンバーを歌った話であったり、新入社員の
歓迎会で酔っぱらった新人の女の子が部長のハゲ頭を叩いた話であったりと、
思わず笑ってしまうようなものばかりだった。最初は緊張気味だった夏美も
少しずつ打ち解けて、営業部もそんなに悪くないところかもしれないと思えるよ
うになった。話の内容も面白かったが、元気づけようとしてくれている修一郎の
気持ちが嬉しかったからだ。
「異動してきたばっかりで戸惑うことも多いと思うけど、何とか一緒に頑張って
いこうよ。ちょっとがさつなところはあるけど、みんな根はいい奴ばっかりだからさ」
修一郎の言葉に、夏美は素直に頷くことができた。気にかけてくれる人がい
るとわかっただけで、半分ぐらい気持ちが軽くなっていた。
その後も修一郎は何かと気にかけてくれ、ちょっとでも沈んだ顔をしていると、
「また飲みにいこうか」
と誘ってくれるようになった。夏美には彼氏と呼ぶべき人もいたのだが、修一
郎の誘いを断る理由にはならなかった。四つ年上の修一郎と同い年の彼とで
は、仕事に対する姿勢や考え方が全然違っていた。きびきびと仕事をこなして
いく姿に、うっとりと見とれてしまうこともあった。大人の男というのはこういう人
のことを言うのだろうと、尊敬の念すら抱いた。二人が恋人同士になるまで、
三ヶ月とかからなかった。
それが今はどうだろう。残業で疲れ切っている夏美を気遣うどころか、ちょっ
と嫌なことがあったぐらいで、
「会社やめたい」
などと言うような男になってしまった。あの、いつも夏美を思いやり、リードして
くれていた修一郎はどこへ行ってしまったのだろう。これではまるで、結婚詐欺
にでもあったみたいだ。
「夏美は甘すぎるのよ」
由佳の言葉が思い出された。
「私だったら、絶対夫にそんなこと言わせないわよ」
そう、夏美は頼もしくて思いやりのある修一郎と結婚したはずだった。あんな
情けないような男と結婚した覚えはない。
前方に電話ボックスが見えてきた。暗がりの中で、そこだけ煌々と光を放っ
ている。四角く並んだプッシュホンが、押してくださいと言わんばかりに浮き上が
って見える。夏美は突進するように歩いていき、由佳の家の電話番号を押した。
「はい、吉沢です」
「あ、由佳? 私、夏美だけど」
「ああ、夏美……」
「悪いけど、今すぐそっちへ行ってもいいかな」
説明するのももどかしく、夏美は捲くし立てるように言った。
「いいけど……どうかしたの?」
「うん、ちょっと修ちゃんと揉めちゃってね。今回は少し真剣に考えたいから、話
を聞いてもらおうかと思って」
由佳はそれだけで何か察したらしく、
「わかった、待ってる」
と言ってくれた。夏美は強い味方ができたような気がして、勢い良く受話器
を戻した。