白衣の天使1.


 

 玄関の扉を開けた瞬間から、夏美には嫌な予感がしていた。声をかけても

返事がないし、荷物を取りに迎えに出てくれる気配もなかった。何か重苦しい

雰囲気が、マンションの部屋中に立ち込めているという感じだった。

 修一郎はダイニングキッチンの椅子に腰掛けて、プロ野球のナイター中継を

見ていた。学生時代ラクビーで鍛えたという大きな身体を傾げて、拗ねたよう

にTVの画面を見つめている。テーブルの上の灰皿は吸殻で一杯だし、その横

には缶ビールが二本置かれている。やっぱりそうかと夏美は思った。嫌な予感

は的中してしまったらしい。

 修一郎には、会社で嫌なことがあると全部家に持ち帰ってくるという変な癖

がある。普通のサラリーマンのように、同僚と酒を飲んで憂さ晴らしするとかス

ポーツで汗を流してストレスを発散させる、ということができない。じーっとお腹

に溜め込んで、家に帰り着くなり一気に吐き出す。

 それは、まるで発作のように何の前触れもなくやってくる。毎日機嫌良く出

勤していたと思ったら、ある日突然不機嫌になり、

「あんな会社、辞めてやる」

 と不満を爆発させる。三年余りの結婚生活の中で、修一郎は何度となくこ

の発作を起こしていた。

「ただいま」

 何も気付いていないふりで声をかけると、修一郎がこちらを向いた。

「遅かったな」

 その声は、もしこの世の中に不機嫌な声コンテストなどというものがあったとし

たら、優勝とまではいかなくても入賞ぐらいはまず間違いなし、という感じだった。

「ごめんね、どうしても今日中に終わらせなきゃならない仕事があったから。これ

でも修ちゃんが待ってると思って、大急ぎで帰って来たんだよ」

 夏美は必要以上に明るく言い、急いで寝室へ避難した。ベッドの脇に、修

一郎のYシャツと靴下がくしゃくしゃに丸められて落ちている。夏美は小さく息

を付き、Yシャツを拾ってクリーニング用の紙袋に入れ、靴下のほうは見ないよ

うにして着替えにかかった。

 どうやら、修一郎が発作を起こしかけているのは間違いないらしい。そのうち

仕事の愚痴が始まり、

「俺はこんなことするために生まれてきたんじゃないんだぞ」

 などと言い出すのはわかっていた。そうなると、今度はその機嫌を直すのに

夏美が四苦八苦することになる。差し詰め夏美は、発作の治療をする看護

婦さん、といった役どころだろうか。

「夏美は甘すぎるのよ。私だったら、絶対夫にそんなこと言わせないわよ」

 大学時代の友達の吉沢由佳に言われたことがある。結婚一年足らずの由

佳は、コンピュター会社に勤める同い年の夫と家事を分担し、生活費も半分

ずつ出し合って、お互い個人的なことには干渉しないという“進歩的な”結婚

生活を送っている。仕事も、結婚を機に三年間勤めた会社を退職してしまっ

た夏美とは違い、大手証券会社で営業ウーマンとしてバリバリ働き続けてい

る。

 そのせいかどうか、由佳はいつも説教じみた言い方をする。

「メンズヘットは単純にできているからね。ちょっと甘い顔を見せると、それが当

たり前だと思っちゃうのよ。妻が無理してるんじゃないかなんて、考えもしないん

だから。だから最初からこっちのペースでやらないと、夏美みたいな目に合うこ

とになるのよ」

 お酒を飲んでいたせいもあって、この時の由佳の口調は一段と冴えていた。

「白衣の天使もいいけど、そのうちパンクしちゃうわよ」

 もっとも夏美にも、修一郎の気持ちが全くわからないというわけではない。修

一郎の勤める教育教材を扱う会社は、年々進む少子化現象と大手出版社

などの市場進出によって、過当競争を余儀なくされている。そういう状況が、

二ヵ月後には三十三回目の誕生日を迎える修一郎にとって、二十代にはな

かった悩みや不満を抱かせるのは当然だと思う。それは、夏美も同じ会社に

勤めていたからよくわかる。

 けれども、ものには限度というものがある。いくらストレスの溜まりやすい中間

管理職世代だからといって、世の中の不幸を一人で背負っているみたいな顔

をされていては鬱陶しくて仕方がない。狭いマンションの二人暮らしでは、相手

の機嫌や体調によってこちらの気分まで決まってしまうものなのだから。それに

今日は、白衣の天使を気取るほどの気力も体力も残っていなかった。

「今日は大変だったんだよ」

 スーツを脱ぎながら、夏美は修一郎に聞こえるように言った。

「データの入力日だっていうのに、インプット寸前になって金額ミスが見つかっ

て、二日がかりで準備したデータが全てパー。何のためにあんなに一生懸命

準備してたんだろうって思ったら、何か虚しくなっちゃった」

 夏美は結婚後、派遣会社に登録し、そこで紹介された医療機器メーカーで

働いている。庶務という仕事柄、残業することなど滅多にないのだが、受注デ

ータの入力日や月末の売上集計時だけは忙しくなる。今日はその入力日だ

った上に途中でミスが発覚して、いつもの三倍ぐらい忙しかった。

「だけど営業の方もひどいと思わない? もっと早く資料渡してくれてたら、そん

なミスしなくてすんだのに。庶務の苦労なんて、ちっともわかってないのよね」

「ふうーん」

 修一郎の返事はそれだけだった。いつもなら、自分のこと以上に憤慨して、

「上のやつに言ってやれ」

 といきまいてくれるのに。

 夏美は着替えの手を止めて、耳を澄ませた。あと十秒、いや十五秒だけ待

ってみよう。カチカチカチカチカチカチカチカチ……。TVから、場違いなほど明る

いメロディが流れくる。

 夏美は仕方なく諦めて、頭からTシャツを被った。こうなったら、できるだけ刺

激しないよう努めて夕食の準備をしてしまおうと思った。お腹が一杯になれば、

少しは気も晴れるだろう。

 そっとドアを開け、足音を忍ばせるようにしてキッチンへ行く。シンクには、今

朝使ったコーヒーカップや皿が水に浸されたままになっている。これぐらい洗っ

ておいてくれてもいいのに その言葉が喉元まで出かかったが、ぐっと息を呑み

込んでどうにか我慢をした。それをきっかけに、発作を起こされては大変だ。

 スーパーの手提げ袋から中身を取り出して、材料を点検する。挽き肉、ナス、

ネギにカニカマボコ……。冷蔵庫には卵もあるし、昨日炊いて残ったご飯もボ

ールに入れてしまってある。うん、大丈夫。夏美は小さく頷くと、いちにのさんで

笑顔を作って振り返った。

「今日は遅くなっちゃったから、マーボナスとチャーハンね」

 修一郎の反応はなかった。こちらに背を向けたまま、依怙地のように煙草を

吸っている。その背中が、そんなことぐらいで誤魔化されないぞと言っているみ

たいに見える。

 夏美はそっと姿勢を戻し、できるだけ音をたてないようネギを刻み始めた。お

願いだから、発作だけは起こさないでね 祈るような気持ちだった。

「あーあ」

 修一郎がこれ見よがしに、大きな溜め息を付いた。

「俺はもう、今日こそ本当に会社が嫌になっちゃったよ。毎日毎日同じことの

繰り返しで、面白いことなんか一つもありゃしない。今日つくづく思ったね、俺

はこんなことするために生まれて来たんじゃないってね」

 とうとう始まってしまった。夏美は包丁を使う手を止め、息をひそめた。

「考えてみると、俺ももう十年もあの会社に勤めているんだよなあ」

 偉業でも成し遂げたみたいに修一郎が言った。

「それも、面白くもない仕事をずっとだぞ。大して世の中の役に立っているとも

思えないし、いい加減うんざりしてきたよ」

 いつもと同じ口調、同じ台詞だった。今まで何度、この台詞を聞かされてき

たことだろう。耳にタコができるどころか、できたタコが耳の外まで飛び出してし

まいそうなぐらいだ。それでも修一郎は喋るのをやめようとはしない。

「もう、あの会社にいるのも限界にきてるよな。そろそろ俺も、本気で辞めること

を考えないといけない時期にきてるのかもしれないな」

 その時だ、夏美の中に異変が起こったのは。今まで抑えていたものが、大き

な固まりとなって一気にこみ上がって来るのがわかった。

「辞めてどうするのよ」

 夏美はくるりと振り返り、低い声で言った。

「えっ?」

 修一郎が驚いたようにこちらを向いた。

「辞めてどうするのって聞いてるのよ」

 夏美は少しもひるまず、その顔を睨み付けた。修一郎は言い訳でもするよう

に口をモゴモゴ動かした。

「だから……ちょっと休んで、自分を見つめ直そうかと……」

「冗談じゃないわよ」

 夏美は顔をしかめて言い放った。

「うちには、そんな悠長なこと言ってられる余裕なんかないんだからね。マンショ

ンのローンだってあるし、いざという時のために貯金だってしておかなきゃならな

いんだから」

「そうだけどさ」

 修一郎が不服そうに言った。

「だけど俺だって大変なんだよ。上からは何やってるんだって言われるし、下の

奴等らは文句ばっかり言うし……。そういう気持ち、少しはわかってくれてもい

いんじゃないの?」

 そんなことはわかっている。わかっているから、一生懸命看護婦の役を演じ

てきたんじゃないか。夏美は地団太を踏みたい気持ちだった。何にもわかって

いないのは修一郎の方だ。

「やっぱりお前も女だよな」

 修一郎がちらっと笑みを浮かべながら言った。

「所詮、女にはわからないんだよな。男がどれだけ会社で苦労してるかってこと

がさ。女は気楽でいいよなあ。俺も女に生まれればよかったよ」

 ブレーキが利かなくなるには、それで十分だった。

「じゃあ聞くけど、会社辞めてどうやって生活していくつもりなの? それでなく

ても不況で失業する人が多いっていうのに、修ちゃんの気に入るような会社が

すぐに見つかるわけないじゃない。私をあてにされても困るわよ」

「何?」

 修一郎の顔付きが変わった。

「俺がいつ、お前をあてにしてるって言った。いつだよ、言ってみろ!」

 言いながら、拳でテーブルを叩いた。もういつもの発作どころの騒ぎではなか

った。

「怒鳴らないでよ」

 夏美は修一郎を見据えたまま、静かに言った。今日だけは、絶対引き下が

らないと思った。

「どうしてそんなに怒鳴らなきゃいけないの? 後ろめたいところがないなら、普

通に喋ればいいじゃない」

「怒鳴りたくて怒鳴ってるんじゃないよ」

 修一郎の声は、ますます大きくなっていく。

「お前が怒鳴らせるようなこと言うから悪いんじゃないか。女だったら、少しは引

くとか謝るとかしたらどうなんだよ。お前はそういうところ、全然ないじゃないか」

「あのね」

 夏美はぐっと身を乗り出した。

「私だって働いてるのよ。会社で嫌なことだってあるし、今日みたいに残業して

死ぬほど疲れてる時だってあるの。そんなこと、わざわざ言わなくてもわかってる

はずでしょ? その私に、これ以上どうしろっていうわけ?」

「だったら仕事なんかやめればいいじゃないか。どうせ、ただの伝票整理だろ」

「ただの伝票整理だって、お給料もらっている以上責任があるのよ。いい年し

て、そんなこともわかんないの?」

 これ以上続けてはいけない 頭の隅で誰かの声がした。けれども、その言

葉の意味を考えるより先に、夏美の口が勝手に動いていた。

「あんたみたいにすぐに会社を辞めたがるような人間に、わかれって言う方が

無理なのかもしれないけどね」

「うるさい!」

 いきなり顔面にビールが浴びせられた。泡を含んだ黄色い液体が、そこら中

に飛び散った。

「そんなに俺が嫌ならさっさと出て行けよ。離婚でも何でも、好きなようにすれ

ばいいだろう」

 夏美は何も言い返さなかった。黙ったまま、じっとしていた。今謝れば許して

あげてもいい。だけど謝らなかったら……。修一郎は無言のまま、新しい煙草

に火を付けた。白い煙が、狭いダイニングキッチンの中にゆっくりと広がって行

く。静かに、静かに、静かに……。

 もうお終いだと夏美は思った。修一郎はこの先も、会社を辞めたいという発

作を起こし続けるだろう。それは、修一郎自身にもどうすることもできない病気

なのだ。一生看護婦の役でもいい そう割り切れれば楽なのかもしれないが、

夏美の心はそんなに広くも強くもできていなかった。

 夏美は素早くティッシュで顔を拭い、壁や床に飛び散ったビールを拭き取っ

た。ティッシュをゴミ箱に捨て、手を洗ってから寝室へ行って濡れた服を着替え

た。そしてバッグを持ち、何も言わずに部屋を出た。