天井の染み4.


 

  カレンダーは12月へと変わった。2、3日続いたぽかぽか陽気は終わり、冷
たい木枯らしの吹く冬がやってきた。今年は前年までの暖冬とは違い、平年
並みの寒い冬になりそうだとTVのニュースで言っていた。
 この次期、銀行は最も忙しい。普段は残業などほとんどない女子行員も、
十二月は残業する日が多くなる。同僚の女子行員たちは文句タラタラだけれ
ど、沙也子はむしろありがたかった。忙しければつまらないことなど忘れていら
れるし、残業すればそれだけ余計なことを考える時間が少なくなる。
 それでも、ふとした拍子に三上たちの姿が頭に浮かぶことがある。家族として
の確かな足取りで歩いて行く三上たち、それをショーウインドウの陰から見つ
める自分が見える・・・・・。一度浮かんでしまうと、その光景はなかなか頭から
離れてくれない。振り払おうとすればするほど、三上たちの姿が鮮明に浮かび
上がってくる。
 沙也子は段々口数が少なくなっていった。同僚たちとのお喋りが、前ほど楽
しく感じられなくなってきたからだ。どうしてかはわからない。ただ、ファッションや
彼氏の話、上司や同僚たちの噂話、今まで楽しくて仕方のなかったそれらの
話が、今はくだらない、どうでもいいような話にしか聞こえなくなってしまったのだ。
そんなことをするぐらいなら、アパートの部屋で天井の染みでも眺めている方が
ずっとましに思えた。
 また金曜日がやってきた。沙也子は朝から落ち着かず、そわそわしながら仕
事をした。近くの電話が鳴るとドキッとして、神経を集中させずにはいられなか
った。何となく、何かが起こりそうな気がした。この決まりきった生活を、突き崩
してくれるような何かが。
 閉店時間の3時が来る頃には、緊張感はピークに達していた。近くの電話
だけでなく、遠くの方の電話が鳴っただけでもドギマギした。沙也子はいつでも
電話に飛びつける体勢を取っていたのだが、待っているような電話はかかって
は来なかった。
 3時半が過ぎ、4時が過ぎた。沙也子はトイレに行く振りをして、そっと席を
立った。結局、何も起こりはしなかった。そんなことは、最初からわかっていたこ
とだった。平凡を絵に描いたようなOLに、何かなんて起こるはずがない。
「バッカみたい」
 一人顔をしかめていると、
「何ブツブツ言ってんだよ」
 後ろで声がした。振り返ると裕次だった。
「何でもない」
 沙也子は慌てて笑顔を向けた。営業に出かけるところだったらしく、鞄と書
類袋を持っている。
「営業?」
「そう」
「毎日遅くまで大変ね」
 十二月に入ってから、裕次はお得意様の接待や新規顧客の獲得にと、連
日遅くまで飛び回っているのだ。
「うん、まあ、これも仕事だから」
 裕次は屈託なく答えると、ちょっとあたりを窺うようにしてから小声で言った。
「だけど、今日は早く終わりそうなんだ。久しぶりに食事でもしない?」
 沙也子は上目遣いに裕次の顔を見た。それは、沙也子が断ることなど考え
ていないような顔つきだった。どうしよう。予定があるわけではないけれど、今日
はいまいち気分が乗らない。
「先約でもあるのか?」
「そういうわけじゃないけど・・・」
「じゃ決まり。7時にパリジャンで。遅れるなよ」
 そう言うと、裕次は返事も待たずに行ってしまった。わざわざ追いかける気に
もなれなくて、沙也子は大股で歩いて行く裕次の後姿を見送った。
 パリジャンに着いたのは、7時5分前だった。銀座のはずれにあるプチレスト
ランで、手ごろな値段でイタリア料理が楽しめる店だ。誕生日やクリスマス、ち
ょっとしたお祝いをしたい時、二人はよくこのレストランを利用していた。裕次は
すでに席に着いており、沙也子を見つけると「こっちこっち」というように手を振
った。
 すぐにワインが運ばれてきて、二人は乾杯をした。いつものように裕次は雄
弁だった。運ばれてくる料理を次々と平らげながら、最近の出来事を話してく
れる。仕事の疲れなど全く感じさせない元気さだ。それが裕次の人柄であり、
魅力でもあった。だけど今日の沙也子には、そんな裕次の元気さが少々鬱陶
しかった。
「どうかした?」
 裕次が顔を覗きこんできた。
「え?」
「さっきから、ちっとも食べてないからさ」
 沙也子のディナー皿には、好物の牛フィレのステーキがほとんど手付かずの
まま残っている。
「何かあったのか?」
「ううん、何もないよ」
 沙也子は笑顔を作り、急いでナイフとフォークを使い始めた。まさか、あなた
の元気さが鬱陶しいとは言えない。
「それならいいけど」
 裕次はそれ以上突っ込んでは来なかった。
 ほっとしたものの、沙也子は何か物足りないような気もした。裕次は決して、
沙也子を追い詰めるようなことはしない。いつでもこちらの気持ちを考えて、優
しく穏やかな接し方をしてくれる。
 だけど時には、少々荒っぽい接し方をしてくれてもいいのではないだろうか。た
とえば三上のように、人の心に無理やり踏み込むような強引さがあったら、裕
次との仲ももっと緊迫したものになるだろうに・・・・・。
 沙也子は自分の考えにギョッとした。よりによって、三上のような男と裕次を
比べるなんて。本当に、今日はどうかしている。
「そういえば、どうして急にここで食事しようなんて言い出したの? いつもは飲
みに行く方がいいって言うのに」
 罪滅ぼしというわけではないけれど、沙也子は自分の方から話題を振った。
「うん・・・ちょっと話したいことがあってね」
 裕次が改まった口調で言った。
「先週、先輩の結婚式に出たのは知ってるだろう?」
 裕次の言葉に沙也子は頷いた。
「すっごくいい結婚式で、先輩も彼女も本当に幸せそうだった。それ見てて思
ったんだけど、俺たちもそろそろそういうこと、考えてもいい時期なんじゃないの
かな」
 何のことかわからず、沙也子はキョトンと裕次の顔を見返した。
「何も今すぐにってわけじゃないんだよ。俺たちまだ若いし、、お互いやりたいこ
ととかあるだろうしさ。だけど2年近く付き合って、お互いのことも分かり合えた
ことだし、ここら辺で将来のことを考えてみるのも悪くないと思ってね」
 ようやく沙也子にも、それが遠まわしのプロポーズであることがわかった。今、
人生最大のイベントである結婚の申し込みをされているのだ。飛び上がるほど
喜んでいいはずなのに、沙也子の心は妙にシンとしていた。
 嬉しくないわけではない。裕次のことは好きだし、結婚相手としても申し分な
いと思う。家族や友達も、大喜びで賛成してくれるだろう。だけど、このまま結
婚してしまうのもつまらないような気がする。結婚とは、もっとドラマチックなもの
だと思っていた。たまたま同じ銀行に就職して付き合うようになり、2年近く付
き合ったからそろそろ結婚しましょうという二人に、どんなドラマがあるというの
だろう。
 沙也子は顔を上げ、裕次の顔を見つめた。
「悪いけど私、そこまで考える気になれないわ」
「だから今すぐでなくていいんだよ。もっとじっくり付き合って、お互い結婚したい
と思う時期が来たら・・・」
「そうじゃないの」
 沙也子は裕次の言葉を遮った。
「裕ちゃんのこと、そういう風に考えられないっていうこと」
 裕次の表情が驚きに変わった。
「それは、この先もってこと?」
 沙也子は静かに、けれどもはっきりと頷いた。
「まいったなあ」
 裕次が曖昧に微笑みながら言った。
「俺は、まさか断られるとは思ってなかったから、こういう場合に言う台詞を考
えて来なかったんだ」
 冗談だろ? と裕次の目が言っていた。そうよ、とひと言言えばすむことだっ
た。けれども沙也子には、どうしてもそのひと言が言えなかった。裕次の顔から、
次第に笑みが消えていくのがわかった。