天井の染み5.


 

 その週末、沙也子はベッドに寝転んで天井に染みを見つめてばかりいた。
胸の中に、ぽっかり穴が空いてしまったような感じだった。これからは、裕次と
食事をすることも、どこかへ遊びにいくこともないだろう。銀行で顔を合わせても、
話しかけてもくれないかもしれない。当然のことなのに、それが現実になってみ
ると沙也子はやはり淋しかった。
 ベッドを抜け出したのは、日曜の夕方になってからだった。ノロノロと片付け
物をしていると電話が鳴った。
「あ、いたの?」
 恵理だった。
「日曜日だから、裕治さんとデートかと思った」
 相変わらず、恵理のテンションは高い。早く電話を終えたくて、沙也子は先
を促した。
「実はすっごいニュースがあるの。渡辺さんから聞いたんだけど、あの三上って
男、結婚してたんだって。しかも、二歳になる女の子までいるんだってよ」
 そのことか・・・。沙也子は喉元まで出かかった溜息をどうにか堪えた。
「渡辺さんも当日になって知ったらしいんだけど、それから他の人探すのも大
変だからそのまま出てもらったんだって。最初に言ってくれれば頼まなかったの
にって、渡辺さんぼやいてたわよ」
 恵理は一気にまくし立て、ちょっと息を整えてからまたまくし立てた。
「迷惑もいいところよね。そんなにコンパに出たくないなら断ればいいじゃない。
こっちだって妻子持ちの男を相手にするほど、困ってるわけじゃないんだから」
 沙也子はもう恵理の話を聞いていなかった。迷惑なのはどっちだろうと思っ
た。
 少なくとも、三上は陰口を利くようなことはしなかった。言いたいことを正々
堂々と、みんなの前で言っていた。三上は人より少し、感情がストレートに表れ
るだけなのだ。
「・・・だから、奥さんともうまくいかなくなるよのね」
 ぼんやり聞き流していた沙也子の耳に、その部分だけが聞こえた。
「え? 何? 今何て言った?」
「やあね、聞いてなかったの?」
 恵理はちょっと不服そうな声を出したが、すぐに喋り始めた。
「あの三上って男、奥さんも子供もいるんだけど、全然うまくいってなくて離婚
寸前なんだって。当たり前よね。あの調子でやられたら、いくら奥さんだって我
慢できるはずないもん」
 そうだったのか。沙也子は謎が解けたような気がした。投げやりな態度も物
憂いような雰囲気も、みんなそのせいだったのだ。本当に三上は、潔癖で繊
細な神経の持ち主なのだろう。だから合コンなんかで浮かれているメンバーた
ちに、うんざりしたのだ。そして、そのことをわかっているのは自分だけなのかもし
れないと沙也子は思った。
「恵理、三上さんの会社の電話番号知ってる?」
「知らないけど・・・どうして?」
「ううん、いい」
 そんなものは番号案内で聞けばいい。沙也子は俄然、元気を取り戻した。

 月曜日、沙也子はさっそく行動を開始した。昼休みに銀行の外に出て、三
上の勤め先の電話番号を調べた。営業所の名前を覚えていたので、わけなく
わかった。沙也子はすぐに電話をかけた。
「三上さんですか? この間、合コンでご一緒させていただいた中川です」
「ああ・・・」
 十日ぶりに聞く三上の声だ。沙也子は逸る気持ちを抑えるようにゆっくり喋
った。
「実は銀行のノルマで、どうしても新規のお客様を獲得しなくちゃいけないんで
す。ご迷惑でなかったら、話だけでも聞いていただけないでしょうか」
 それは、昨日一時間ぐらい考えて、やっと思いついた口実だった。
「そう言われても・・・」
 三上は迷っているようだ。沙也子は再度お願いした。
「お願いします。女子行員は話を聞いていただくだけでも、ノルマを達成したこ
とになるんです」
「そう・・・僕も仕事柄、今の金融業界が大変なのは知ってるから、そういう頼
みは無下に断れないよね」
「お願いできますか?」
「まあ、話だけなら」
「ありがとうございます」
 沙也子は思わず、電話口に向かって頭を下げた。
 午後の時間は瞬く間に過ぎた。沙也子は念入りに化粧をして銀行を出た。
待ち合わせの場所は赤坂のフォンテーヌ、恵理たちと合コンをしたパブレストラ
ンだ。
 沙也子の足取りは軽かった。これから三上に会いに行く・・・そう思っただけ
で胸がドキドキと高鳴った。その原因が何であるか、沙也子にはもうわかって
いた。
 少し緊張気味に店に入っていくと、三上はすぐに見つかった。席まで決めて
いたわけではなかったのに、店に入った瞬間、そこに三上がいることがわかった。
ビールを飲みながら、俯き加減に煙草を吸っている。明るさを抑えた証明の中
でも、物憂いような三上の雰囲気は他の客たちと明らかに違っていた。
「三上さん」
 声をかけると、三上がゆっくり顔を上げた。
「やあ」
 声も表情も、あの日と同じだった。
「すみません、随分待ちました?」
 弾む声で言いながら、沙也子は向かいの席に腰を下ろした。
「もっと早く来るつもりだったんですけど、銀行は今が一番忙しい時期なんで、
なかなか思い通りの時間に出れなくて・・・」
「いや、僕もさっき来たばかりだから」
 三上は煙草を揉み消しながら、さり気なく言った。
 そのままビールで乾杯し、料理を何品か注文した。月曜日なので、店はわり
と空いていた。あまりガラガラだと白けてしまうけど、お酒を飲みながら話をする
には丁度いい。沙也子は銀行のパンフレットを取り出して、お勧めのカードの
説明を始めた。三上は口を挟むこともなく、黙って聞いている。
「お話の方はわかっていただけたでしょうか」
 沙也子の問いに、三上はわかったというように頷いた。
「でしたらぜひ、ご入会いただきたいのですが」
「いいよ」
 即座に返事が返ってきた。あんまり早かったので、沙也子の方がびっくりして
しまったぐらいだ。
「いいって、本当にいいんですか?」
「そうだよ、そのつもりで来たんだから」
 そう言うと、三上は内ポケットの中からボールペンを取り出して、申込書に記
入し始めた。ご丁寧に、印鑑まで用意して来ている。まさか本当に、入会して
もらえるとは沙也子は思っていなかった。
「これでいいのかな」
 三上が記入し終えた申込書を差し出した。沙也子は一応目を通し、
「結構です。ありがとうございました」
 と頭を下げた。
「それじゃあ、ゆっくり飲みましょうか」
 ゆったりと座りなおして三上が言うと、沙也子は困ってしまった。
 何を話せばいいのかわからなかった。仕事の話では底が知れているし、奥さ
んや子供の話を聞くわけにもいかない。御神ぐらいの年齢の男性がどんな話
をするものなのか、沙也子には見当もつかなかった。仕方がないので、黙って
ビールを飲むことにした。三上が相手なら、それも不自然ではないような気がし
た。
 しばらく沈黙が続いた後、
「今日は大人しいんだね」
 三上が言った。
「この前は随分威勢が良かったのに」
「それは相手の態度が悪すぎたからですよ」
 沙也子は悪びれずに言い返した。そういうことが自然にできた。
「もしかして、僕のことを言っているのかな」
「もしかしなくても、そうです」
 三上が声を立てて笑った。笑ったところを見るのは初めてだった。いつもの物
憂さが消え、意外と優しい顔が覗いた。でもそれは一瞬のことで、すぐに元の
表情に戻ってしまった。沙也子はもっと三上の笑顔をみたいと思ったが、どう
すればいいのかわからなかった。
 またしばらく沈黙が続いた。沙也子はビールを飲んだり料理をつまんだりしな
がら、三上が話しかけてくれるのを待った。三上はずっと、考え事でもするよう
に煙草を吸っている。一体何を考えているのだろう。そう思った時、三上がこち
らを向いた。
「君は変わってるね」
 その口調には、さっきまではなかった意地の悪い響きがあった。
「どうして僕なんかに連絡してきた? みんな、僕のことは避けようとするのに。
僕が入会するかどうか、みんなと賭けでもしたのかな?」
 沙也子は驚いて三上の顔を見つめた。どうしてそんなことを言うのかわから
なかった。
「図星みたいだね」
 三上が皮肉っぽく笑った。
「だったらもう用は済んだだろう。さっさと帰ったらどう? それとも、僕とどれだ
け一緒にいられるか、賭けているのかな?」
「帰ります」
 沙也子はたまらず立ち上がった。
これ以上ここにいても無駄だと思った。三上のような男と、気持ちが通じ合え
ると思ったのが間違いだった。
 三上は何事もなかったように煙草を吸い続けている。沙也子が帰ろうとして
いることなど、気にも留めていないというように。三上はそういう男なのだ。たと
え誰が相手でも、それは変わらないのだろう。
 沙也子は不意に、何もかもぶちまけてしまいたくなった。
「でも、帰る前にこれだけは言っておきます」
 俯いている三上に向かって、挑むように言った。
「私は誰とも賭けなんかしてません。そんなこと、考えたこともありませんでした。
確かに銀行のノルマを口実に使ったことは事実です。でもそれは・・・」
 沙也子の声が急に震えた。三上が顔を上げ、沙也子を見つめた。
「三上さんに会いたかったからです」
 沙也子の身体からすうっと力が抜けた。よろけまいとして、沙也子はテーブ
ルに両手をついた。その手が、プールの中で目を開けた時のようにユラユラ揺
らめいて見えた。
 帰ろう。帰ってみんな忘れてしまおう。三上と出会ったことも、三上が言った
言葉も。そして、三上を好きになったことも・・・。
 その時、三上の低い声が聞こえた。
「・・・悪かったね」

 クリスマスが近づいていた。沙也子は駅ビルの中の喫茶店で、三上が来る
のを待っていた。あれから三日に一度はこうして会うようになった。まだ一緒に
食事をしながらお酒を飲むという程度のつき合いでしかなかったけれど、それ
がもっと親密な関係になるのは時間の問題だという気がする。
 もちろん、三上に妻も子供もいることはわかっている。離婚のことも、本当に
するのかどうかわからない。だけど今は、それでいいと思っている。先の見通し
などつかなくても、今の自分の気持ちに正直でいたい。三上が三上であること
に、変わりはないのだから。
 沙也子は喫茶店のウインドウ越しに、夜の帳の下ろされた街並みを眺めた。
暖冬のせいで客足の鈍っていた赤坂の街も、クリスマスが近づくと共に賑わい
を取り戻してきた。ツリーやサンタクロースに模られたイルミネーションが、嫌で
も人々の心をかき立てる。聞こえてくる音楽もクリスマスソングばかりだ。
 沙也子はふっと視線をテーブルに戻した。一年の内でも、最も一人でいたく
ない日。けれどもその日、沙也子はおそらく一人で過ごさなければならないだろ
う。妻子のある人を好きになってしまった宿命みたいなものだ。これから先、そ
ういう機会が増えることは確かだと思う。それを考えると、沙也子はやはり憂
鬱になってしまう。
 だけどまだ、漢字で
「憂鬱」
 と書くほどではない。カタカナの
「ユウウツ」
 から、ひらがなの
「ゆううつ」
 に変わった程度だろうか。
 溜息をつかせた天井の染みも、今はほとんど見ることもない。

〜完〜