天井の染み3.


 

 翌日は、前日の寒さが嘘のようによく晴れた小春日和だった。いつもは昼近
くまで寝ている沙也子も早起きし、洗濯や掃除、布団干しまでやってしまった。
一仕事終えると、ベッドに寝転んで天井に染みを眺めながら昨夜のことを思
い出した。
 最初から、三上にはちょっと変わったところがあった。こちらが笑顔で挨拶し
ても気のない顔で会釈を返してよこしただけだったし、みんなで乾杯した時も誰
ともグラスを合わせようとしなかった。気の進まない合コンに出させられたせいも
あるだろうけど、それだけではない、何か投げやりな物憂い雰囲気が漂ってい
た。年齢も、ひょっとすると他のメンバーたちより、二つ三つ上かもしれない。
 それにしても・・・と沙也子は考えた。三上は何故、あんなことを言ったのだろ
うか。
「君のことが気に入ったからだよ」
 そう言った時の三上の声も表情も、はっきりと思い浮かべることができる。そ
れは、冗談や誤魔化しで言っているようには見えなかった。三上はそんなこと
で女の子を面白がらせるようなタイプではなかった。そうすると、どういうつもりで
あんなことを言ったのだろう。まさか本気で、あんな芝居じみた台詞を言ったわ
けでもないだろうに・・・。
 部屋の隅の電話が鳴った。沙也子は思わずビクッとした。とっさに三上の顔
が浮かんだが、すぐにそんな考えを打ち消した。それこそ、あるはずのないこと
だった。
「お早う、沙也子。起きてた?」
 電話は恵理からだった。沙也子はホッとすると同時に、何となくがっかりして
いる自分にも気が付いた。沙也子は急いで明るい声を出した。
「起きてるわよ。もうすぐお昼じゃない」
「あ、そっか」
 言いながら、恵理はクククッと喉を鳴らして笑っている。この様子だと、どうや
ら昨日の合コンはうまくいったようだ。
「随分ご機嫌じゃない、何かいい事あった?」
「あった、あった。あ、でもその前に・・・」
 恵理はちょっと畏まるようにして、
「昨日はいろいろとありがとうございました。おかげ様で、無事に幹事を務める
ことができました」
 と言った。
「いいえ、どういたしまして。お役に立てて何よりです」
 負けじと沙也子も畏まって答えた。そして二人で同時に噴き出した。
 ひとしきり笑い終えると恵理が言った。
「だけど昨日はびっくりしたねえ。私もいろんな合コンに出たけど、あんな変わっ
た人に会ったのは初めてよ。沙也子なんて、ますます合コン嫌いになっちゃっ
たんじゃない?」
「うん、まあ、そうでもないけど・・・」
「あれからどうした? まさか、また嫌味なことでも言われたんじゃないでしょう
ね?」
「そんなことないよ。ちゃんと駅まで送ってくれたし、途中で甘栗買ってくれたり
して・・・」
「甘栗ー?」
 呆れたような恵理の声が返ってきた。沙也子は慌てて説明した。
「ほら、よく道端に天真甘栗のお店が出てることあるじゃない? それが駅前に
あったから、思わず“懐かしい”って言ったら三上さんが買ってくれたのよ」
「へえ・・・でもどうして、そんなことしてくれたんだろうね」
 そのことを、沙也子は恵理に話すつもりでいた。笑い話として楽しむには充
分な材料だったからだ。けれども、実際に沙也子の口から出たのは全く別の
言葉だった。
「さあ・・・迷惑かけたお詫びかなんかのつもりだったんじゃないの? あの人、
本当はそんなに嫌味な人でもなさそうだったから」
「どしたの沙也子」
 恵理が不思議そうに言った。
「何が?」
「何か、やけにあの男のことを庇うから。ひょっとして、送ってもらって愛が芽生
えたとか?」
 沙也子はドキッとした。そして、そのことに自分自身が驚いた。
「まさか・・・」
「だよね。沙也子があんな変人、相手にするわけないもんね。裕次さんていう、
素敵な彼氏もいるわけだし」
「まあね。それより恵理、いい事って何なの? そっちの話を聞かせてよ」
 沙也子はさりげなく話題を逸らせた。これ以上、三上のことを話題にしたくな
かった。
「そうそう、その話」
 恵理はすぐに乗ってきた。沙也子はほっとして、受話器に響かないよう小さく
吐息を漏らした。

 日曜日、沙也子は冬物の下見をするために渋谷へ出かけた。前日からの
小春日和が続いて、部屋の中にいるのがもったいないような気がしたからなの
だが、たとえどんなどしゃ降りだったとしても出かけていたかもしれない。何かし
ていなければ、またつまらないことを考えてしまいそうだった。
 まずデパートを見て廻り、何件ものブティックが入っているファッションビルへ
廻った。いろんな店を覗いて歩くのは楽しいけれど、それだけに気に入ったもの
を見つけるのはかなりのエネルギーが必要になってくる。一通り見終わった頃
には、すっかり疲れ果てていた。こんなに疲れて手ぶらで帰るのも馬鹿馬鹿し
いので、最後に入ったブティックで店員に勧められるままスーツを買ってしまっ
た。黒に近いグレーのツイードで、明るい色ばかり好んで着ている沙也子には
珍しい色合いだった。
 大きな紙袋を下げてビルを出ると、外ではすでに夕暮れが始まりかけていた。
気のせいか、街を歩く人たちの足取りも、家路へ向かっているように見える。
明日から、またアパートと銀行を往復するだけの毎日が始まる。不満や悩み
もない代わりに、特別胸がときめくこともない生活が。
 沙也子は小さく息をつき、駅に向かって歩き出した。余計なことを考えるの
はよそうと思った。考えたところで答えが出るわけじゃなし、ますます憂鬱になる
だけだ。
 人込の中を縫うようにして歩いていると、歩道沿いのショーウインドウに目が
止まった。中に、買ったばかりのスーツに似合いそうなブラウスが飾ってあった。
襟ぐりの大きく開いたデザインで、色は卵色、光沢のある素材はシルクかもし
れない。
 沙也子はそのブラウスとスーツを合わせて着た姿を想像してみた。なかなか
良かった。値段は・・・と見ると、1万8千円。なかなかいいどころではない。それ
だけあれば、1週間は楽に暮らせる。
 がっかりしながらウィンドウに背を向けて、沙也子はハッと目を瞠った。行き
交う人の波の中に、見覚えのある顔を見つけたような気がしたからだ。最初、
それが誰だか沙也子にはわからなかった。それが三上だと気付いた時には驚
いた。そしてその横に、三上より二つ三つ年若の女性と、2歳ぐらいの女の子
がいるのを見つけたときにはもっと驚いた。それは、どう見ても家族の姿だっ
た。
 三人は、こちらに向かってゆっくりと歩いてくる。沙也子は思わずウィンドウの
陰に隠れた。三上の方は沙也子に気付いていないようだ。ゆっくりと前を通り
過ぎ、すぐに人込の中に見えなくなった。
「いらっしゃいませ」
 店の中から店員が出てきた。
「気に入ったものがありましたらお取りしますよ」
「え?ええ・・・」
 沙也子は曖昧に頷き返してから、もう一度三上たちが去って行った方向に
目を走らせた。後姿でも見つけて、あれが本当に三上だったのか確かめたか
った。けれども、夕暮れ間近の渋谷の街は、一度見失ったら最後、永久に見
つけられないんじゃないかと思えるほど混雑していた。
「これなんか、これからの季節にぴったりなんじゃないかと思いますけど・・・」
「すみません、いいんです」
 沙也子は店員を押しのけるようにして、その場を離れた。
 今見たばかりの光景が信じられなかった。結婚しているなんて、三上はひと
言も言わなかった。もちろん、合コンの席で自分のことを洗いざらい話す必要
はない。沙也子だって
「同じ銀行に勤める彼氏がいます」
 なんてことは言わなかった。
 だけど・・・だけど三上はあんなに真剣に、
「君のことが気に入った」
 と言ってくれたじゃないか。あれはただの気まぐれ? それとも、妻子持ちの男
が退屈しのぎにちょっとからかってみただけ? それとも、それとも・・・。
 横断歩道の信号が赤に変わった。駅に向かって流れていた人の波が急に
止まり、数珠つなぎになっていた車が動き始めた。沙也子も立ち止まり、通り
過ぎていく車をぼんやり眺めた。そしてひと言、
「嘘つき・・・」
 と小さく呟いた。