リバイバル3.


 それから12年たった今、銀座の小さな喫茶店で、優一は昔と変わらぬ優
しい眼差しを向けている。翔子はその眼差しの意味を、どう受け止めていいの
かわからなかった。ただ懐かしいだけなのか、それとももっと別の意味があるの
か。翔子は少しだけ、それを確かめてみたいという誘惑に駆られた。
「進藤君、結婚は?」
 翔子が訊ねると、優一は左手をかざして見せながら、
「まだだよ」
 と答えた。
「どうして? 男の人だって、三十にもなれば結婚しててもおかしくないでしょ
う?」
「年だけじゃ、結婚できないよ」
 優一がさりげなく目を逸らして言った。その横顔が、翔子には淋しそうに翳っ
たように見えた。
「それはそうだけど・・・」
 それ以上言葉が見つからず、何となく気まずい空気が流れた。
 翔子は自分の軽率さを悔やんだ。そんな誘惑に駆られてはいけなかったの
だ。昔は昔、今は今。そう割り切って、ただの高校時代のクラスメイトとして、
昔話をするだけに止めておかなければいけなかったのだ。もう二度とそんなヘマ
をしないよう、翔子は気持ちを引き締めた。
「そういう翔子はどうなんだよ」
 優一が言った。
「え?」
「してるんだろう? 結婚」
 そう言って顔を覗きこんできた優一の目は、高校時代に女子生徒をからか
っていた時と同じ目つきだった。
「まあね」
 翔子は照れくさそうに笑いながら、左手の薬指にはまっている指輪を見せ
た。
「いつ頃?」
「3年ぐらい前」
「子供は?」
 そう聞かれた時、翔子は一瞬言葉に詰まった。
「・・・ううん。それは、まだ」
「ふう〜ん。それにしても翔子が人妻かぁ・・・何だか本当に信じられない話だ
よなぁ」
 言いながら、優一が翔子の指を取った。ただ結婚指輪を見ようとしただけだ
ったのだが、翔子は指に電流でも走ったみたいにサッと手を引っ込めた。
 優一がびっくりしてる。翔子は赤面した。高校生じゃあるまいし、男に手を取
られたぐらいでどぎまぎするような純情さが、今の自分に残っているはずがなか
った。
「ごめん。私、何か変よね」
 翔子は慌てて謝った。優一は微笑しながら首を振った。
「翔子は昔から、そういうところがあったからな」
 その話はしたくなかった。翔子はわざと茶化して言った。
「あの頃は純情でしたから」
「じゃあ、今は純情じゃないわけか?」
「そういうわけじゃないけど、高校時代とはやっぱり違うでしょう」
 高校時代の話になり、二人は急に饒舌になった。
「あの頃の翔子は、いつ見ても真っ黒だったよなぁ。よく腕の黒さ比べっこした
けど、いっつも俺の方が負けてたもんな」
「仕方ないじゃない。毎日テニス部の練習があったんだから。進藤君にはよく
“土方焼け”ってからかわれてたけど、結構傷ついてたんだからね」
「何言ってんだよ。俺の方こそ翔子には、しょちゅうきついこと言われてたんだ
ぜ」
「そうだった?」
「そうだよ。ほら、いつだったか、俺が掃除当番忘れて帰ろうとした時、女ばっ
かり5・6人で取り囲んだことがあっただろ? 翔子なんか、すっごくおっかない
顔して、“進藤君には責任感てものがないの”なんて迫ってくるんだもんな。俺
はあの時、生まれて初めて人前で泣きたくなったよ」
 優一は、つい昨日のことのように、情けない表情で言う。翔子は笑いを堪え
ながら言った。
「その代わり、試験前にはいつもノート貸してあげてたじゃない」
「ああ、あれには感謝してるよ。何しろ授業中は寝てばっかだったから、ノート
取ったことなんかほとんどなかったもんな」
 高校時代の話なら、種はいくらでもあった。
「ねえ、冬休みにみんなで遊園地に行ったこと覚えてる?」
「覚えてるよ。すっごく寒くて、凍え死ぬかと思ったよな」
「そういえば、授業中にあんまりお喋りしすぎて、先生に怒られたこともあったよ
ね」
「ああ、数学の木村って先生だろ? おかげですっかり印象悪くしちゃって、あ
れ以来、何かというと俺は目の敵にされてたよなぁ」
 次から次へと話題が飛び出して、昔話は尽きることがなかった。
 あっという間に時間は過ぎていき、何気なく腕時計に目をやった翔子はびっ
くりして声を上げた。
「やだ、もうこんな時間! 1時間もたったなんて、ちっとも知らなかった。進藤
君、時間大丈夫?」
 優一がククク・・・と笑いながら言った。
「打ち合わせは4時からだから大丈夫だよ。それにしても今の声の出し方、昔
とちっとも変わってないなぁ」
「どうせ、私は昔から、おしとやかじゃありませんでしたよ」
 唇を尖らせて言い返すと、
「そうそう。俺たちがからかうと、翔子はすぐそういう顔してたよな。翔子をから
かうと面白いって、俺たちよく言ってたんだぜ」
 優一がまたもや笑いながら言った。
「ろくなこと覚えてないのね。もうちょっと、高校生らしい美しい思い出ってない
の?」
「そりゃ、あるさ」
 冗談のつもりで言ったのに、そう答えた優一の顔は笑っていなかった。
「でもそれは、言わない方がいいだろ?」
 翔子の顔はみるみるうちに赤くなった。そんなことを優一に言わせるつもりは
なかった。そういう話題には一切触れないよう、充分注意していたはずだった。
なのに結果的には自分から、話題をそっちへ持って行ってしまったようなもの
だった。
 翔子は唐突に言った。
「そろそろ出よう」
 これ以上この店にいたら、言わなくてもいいことまで言ってしまいそうだった。
「ああ、そうだな」
 今度は優一もすぐに同意した。
 喫茶店から一歩外へ踏み出すと、真夏の攻撃的な太陽が容赦なく襲い掛
かってくる。
「暑いなぁ」
 優一がスーツの上着を脱ぎながら空を仰いだ。そして、
「じゅあ」
 と翔子が言いかけた時、
「ちょっとその辺、散歩しないか?」
 と言った。
 時刻は2時過ぎだ。
「この暑いのに?」
 翔子は素っ頓狂な声を上げた。相変わらず優一は、こちらがびっくりするよう
なことを平然と言う癖があるようだ。
「まあ、暑いことは暑いけど、日比谷公園まで行けば、木陰があって結構涼し
いぞ」
「でも・・・」
 翔子はためらった。もう昔話は充分したはずだった。なのにこれ以上、優一と
一緒にいていいものだろうか。
「打ち合わせの時間まで、まだ1時間以上あるから、それまで時間潰すの大
変なんだよ。頼むよ、付き合ってくれよ」
 高校時代、試験前になると優一は、こういう口調で翔子のノートを借りに来
た。そしてその頃から、翔子は優一に何か頼まれると嫌と言えなくなってしまう
のだった。
「もう〜、本当に昔と変わってないんだから」
 文句を言いながらも、翔子は優一と肩を並べて目もくらむような強い日差し
の中を歩き出した。

 

 

 

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