リバイバル4.
公園の木々は青々とした葉を、隙間もないほどびっしり茂らせていた。さすが
に真夏の太陽も、そこまで差し込んでは来ない。鬱蒼と茂った木立の中は、
意外に涼しく爽やかだった。
翔子と優一は、その木立の中をゆっくりと歩いていた。昼間の公園は、所々
に置かれたベンチに束の間の涼をとるサラリーマンの姿がちらほら見えるだけ
で、ほとんど人影もない。都心の喧騒の中で、ここだけ時間が止まってしまっ
たような不思議な空間だった。
そういえば、翔子たちが通っていた高校も、こんな風に鬱蒼と茂った木々に
囲まれていた。校庭のあちこちに保護樹林に指定された大きなくぬぎやけやき
の木があって、その下のベンチは生徒たちがお喋りをする格好の場所だった。
翔子と優一も、そのベンチで何度かお喋りをしたことがあった。
いけない・・・また、こんなことを思い出してしまった。そう思った時、優一が翔
子の手を握った。驚いて見上げると、
「昔はこうしただけで嫌がってたよな」
またあの優しい目をして言う。その眼差しが何を意味しているか、翔子には
最初から判っていたような気がする。優一の気持ちは、高校時代のままなの
だ。この12年間、何故翔子が心変わりしてしまったのかわからないままに苦し
められてきたのだろう。
翔子だってそうだ。きっと優一は自分を恨んでいるだろう・・・その思いにずっ
と苦しめられてきた。けれど今更どうすることができよう。12年前の二人には、
もう戻ることはできないのだから・・・。
ふと見上げると、いつの間にか雲行きが怪しくなっていた。真っ青だった空に、
灰色の雲が広がっている。
「何だか雨が降ってきそうだね」
言いながら、翔子はそっと優一の手を離した。
二人は黙って歩き続けた。辺りが急に薄暗くなり、熱気を含んだ風が木々
の葉をざわつかせている。そろそろどこかに避難しないと、今にも夕立が降って
きそうだった。それでも二人は歩き続けた。まるでそうしていれば、高校時代の
二人に戻れるとでもいうかのように。
優一が立ち止まり、こちらを向いた。
「一度、翔子に聞きたいと思ってたことがあるんだよ」
それが何であるか、翔子には聞かなくてもわかっていた。来るべきものが来た
という感じだった。
「何?」
翔子は覚悟を決め、優一の目を真っ直ぐに見つめ返した。二人にとってそ
れは、避けて通れない問題だった。
「あのさ、高校の時、どうして翔子が俺から離れて行ったのか、俺には全然わ
からなかったんだ」
優一は昔の失敗談でも話すみたいな口調で言った。
「もう10年以上も前のことだから、今更何を言われても驚かないからさ。どうし
てあの時、俺を嫌いになったのか聞かせてくれないかな」
「嫌いになんかなってない!」
翔子は思わず叫んだ。
「嫌いになんてなってないわよ。だって私、卒業してからもずっと、進藤君から
電話がかかってくるのを待ってたんだから」
翔子は思い出した。待っていれば、いつかきっと優一が声をかけてくれるだろ
う、そう信じて過ごした日々。今度こそという期待を胸に秘めて迎えた卒業式。
そして毎日毎日優一からの電話を待ち続けた春休み。その思いは、大学へ
進学してからもしばらく続いた。悩みに悩み、苦しみぬいた1年間だった。
そして、2年後に行われたクラス会でも、優一は声をかけてはくれなかった。
完璧なまでに無視された翔子は、二人の間にあったものはもう何一つとして
残っていないのだと認めないわけにはいかなかった。その時ようやく、自分の気
持ちに踏ん切りを付けることができたのだ。
なのにどうして、嫌いになったりするだろう。翔子の方こそ優一に、どうして声
をかけてくれなかったのかと問質したいぐらいだ。
「じゃあ、どうして?」
優一が問い返した。
「どうしてあの時、俺を避けてたんだよ。俺はてっきり嫌われたと思ったんだぜ」
「それは・・・」
翔子は口篭った。覚悟を決めたはずなのに、いざとなるとなかなか口に出す
ことができない。
「やっぱり嫌いになったんじゃないか」
優一が怒ったように言った。苦し紛れの言い訳と取ったようだった。
「嫌いになったら嫌いになったって、あの時はっきり言ってくれればよかっただよ。
おかげで俺がどんなに悩んだか翔子にわかるか? しばらく誰も信じられなくな
ったぐらいだよ。今更いいわけなんてしないで、はっきり理由を言ってくれればい
いんだよ」
「違う、違う、違う」
翔子は首を振りながら何度も言った。
「じゃあ、どうして俺を避けたのか、ちゃんと説明してくれよ」
優一の目は明らかに怒っていた。翔子はもうどうにでもなれ!という感じで叫
んだ。
「進藤君が怖かったのよ!」
「怖かった?」
優一にはその意味がよく飲み込めないようだった。翔子は構わず続けた。
「私、あの頃、そういう経験が全然なかったから、進藤君が手をつないだり肩
を組もうとしただけで、何だかすごく嫌らしいことされたみたいな気がしちゃった
の。私、一度、進藤君に言ったことがあったでしょう?」
「そういえば、そんなこともあった・・・」
「だけど進藤君は“翔子はプラトニックラブ派なのか”って笑ったのよ。それで私、
ものすごく傷ついたの。この人は私の気持ちなんて、ちっともわかってくれないっ
て・・・。それから余計、進藤君が怖くなっちゃたの」
「そうだったのか・・・」
優一が呆気に取られたように呟いた。12年前の幼い恋の破局に、そんな真
相が隠れていたとは思いもしなかったのだろう。今となっては笑い話だが、当時
の翔子には深刻な問題だったのだ。
「それならそうと、あの頃もっとはっきり言ってくれればよかったんだよ」
優一がちょっと笑いをこらえるようにして言った。
「だから言ったじゃない」
「いや、もう一度さ」
「こんなこと、恥ずかしくて何度も言えるわけないでしょ」
「そりゃそうだ」
優一はクククッと笑いながら言った。
「ほら、笑うでしょう?」
翔子は抗議するように言った。
「だから言いたくなかったのよ。どうせ笑われるに決まってるんだから。12年もた
ってから、こんな恥、かきたくなかった・・・」
翔子の身体はくるりと向きを変え、優一の腕の中にすっぽり包み込まれてい
た。そして優一は翔子の額にキスをした。翔子は目を丸くしたまま、されるがま
まになっていた。
優一が微笑みながら言った・
「昔はこんなこと、させてもらえなかったからな」
きっと翔子は怒らなければいけなかったのだろう。いくら高校時代に付き合っ
ていた仲とはいえ、今の翔子にはたとえ冗談でもこんなことをされては困るの
だ。
けれども翔子の身体はすでに力が抜けていて、優一の腕に支えられていな
ければ、今にもこの場に崩れ落ちてしまいそうだった。
「翔子は今でも可愛いな」
優一が翔子の身体を抱きしめて、耳元で囁いた。
「ずっと翔子のことが忘れられなかった・・・」
翔子の身体を震えるような喜びが駆け巡った。この世の中に12年間も、自
分を思い続けてくれた人がいる。そして今、その人の腕に抱きしめられている。
この瞬間のためだけに、自分は今まで生きてきたとさえ思えた。
けれども、その喜びは長くは続かなかった。翔子は優一の気持ちを受け入れ
られるような立場ではなかった。現実はいつも残酷で、そしてちょっぴり意地悪
だ。
「そんなこと、できない」
翔子は優一の身体を押しのけて駆け出した。逃げようとしたのではない。高
校生の時と同じように、優一の傍らにいるのが怖くなったのだ。
夕立が降り始めていた。翔子は濡れるのも構わず木立の中を走った。
「翔子! 待ってくれよ、翔子!」
後方から優一の声が聞こえてきた。
ああ、どうして12年前、そうやって追いかけてくれなかったのだろう。もしあの
時優一が声をかけてくれさえすれば、あんな別れ方をしなくてすんだのに・・・。
そうしたら今日の二人の再会も、もっと違ったものになっていたかもしれなかっ
たのに・・・。
とうとう走りつかれ、翔子は立ち止まった。大きな雨粒が、翔子の髪や頬を
濡らしていた。肩で息をしながら翔子は考えた。ここまできたら、もう自分の気
持ちを素直に認めてしまおう。意地っ張りの癖は、そろそろ卒業してもいい頃
だ。だってこの人は、今でも自分を思ってくれてるんだもの・・・。
振り返ると、優一が昔と変わらぬ優しい目をして立っていた。翔子は意を決
して言った。
「抱きしめて」
優一はにっこり微笑むと、翔子の身体をしっかりと抱きしめた。背中に回さ
れた優一の腕に力が入り、翔子も思わず優一の身体にしがみつく。すぐに優
一の顔が降りてきて、唇と唇が重なり合う。翔子と優一は何度も抱きしめあい、
唇を重ねあった。優一の舌と翔子の舌が絡み合い、歯と歯がぶつかり合って
小さな音を立てた。息を吸うために唇を離す度に、二人の口から溜息のよう
な切ない声が漏れる。翔子の身体を震えるような快感が走り抜けた。
翔子はやっとわかった。12年前のあの頃、本当は自分もこうなることを望ん
でいたのだ。優一と抱き合い唇を重ねることを。ただ少女の潔癖さが、それを
認めたがらなかっただけなのだ。翔子と優一は雨に濡れながら、何度も何度も
抱きしめあい唇を重ねあった。
雨はすっかり上がっていた。公園のあちこちにできた水溜りに、すっきりと晴
れ渡った空が映っている。雨に洗われた木々の葉は、一層鮮やかさを増し、
輝くような色合いを見せている。
その中を、翔子と優一は公園の出口へ向かって歩いていた。
「大丈夫? もうどこも濡れてない?」
歩きながら、翔子はこれから仕事へ向かう優一を気遣って訊ねた。
「大丈夫だよ、そんなに濡れたわけじゃないから」
優一も歩きながら答える。
公園の出口は近づいていた。翔子の足は鈍った。出口へ行き着く前に、ど
うしても優一に言わなければならないことがある。
翔子は立ち止まって声をかけた。
「進藤君」
優一も足を止め、こちらを向いた。
「私、進藤君に言わなきゃならないことがあるの」
「何?」
翔子はほんの少し目を逸らすようにして言った。
「私、来年子供が生まれるのよ」
一瞬、優一の目が驚いたように見開かれ、そしてすぐに笑顔になった。
「何だ、そうだったのか。だったら早く、言ってくれればよかったのに。散歩なん
かに連れまわしたりして、悪かったな」
「そんなことないけど」
「これでとうとう翔子も母親になるわけだ。おめでとう」
「・・・ありがとう」
そう答えたものの、翔子は優一の言葉に戸惑いを感じていた。実はもう少し、
違う反応を想像していたのだ。
「そういうことなら、俺もバラしちゃうけどさ」
優一がバツが悪そうに言った。
「実は俺、来月結婚するんだ」
「ええーッ!?」
翔子は頭のてっぺんから突き抜けそうな声を上げた。優一にも、言わなけれ
ばならないことがあったのだ。
「どうして言ってくれなかったのよ」
翔子は攻め立てるように言った。そんな大事なことを、隠しておくなんてずる
い。
「いや、何か照れくさくてさ」
優一はさかんに照れながら言う。
「何が“照れくさい”よ。照れるような歳じゃないじゃない」
「そうだけどさ・・・。でも、そういう翔子だって、子供のこと言わなかったじゃない
か。どうしてだ?」
そう言われると、翔子も返答に困る。
「そりゃまあ、やっぱり、何となく恥ずかしかったから・・・」
「だろ?」
優一がしたり顔で言った。
「昔の仲間にこういうこと言うのって、何か照れくさいものなんだよ」
翔子と優一は、まじまじとお互いの顔を見つめあった。そして、どちらともなく
笑い出した。
そう、何もかも過去のことなのだ。ただ、12年前に確かめられなかったお互い
の気持ちを、今ここで確かめてみただけのことで。そして二人の思い出は、美
しいピリオドを迎えたのだった。
笑いながら優一が言った。
「俺が結婚するって言った時の翔子の声、鼓膜が破れるかと思ったよ」
翔子も笑いながら声を返す。
「自分こそ、私が子供が生まれるって言った時、目の玉が飛び出しそうにびっ
くりしたくせに」
二人の間には、思い出の中の人と出会った懐かしさだけがあった。さっき抱
き合った時の激情は、今はもうすっかり消えていた。
「それじゃあ、また」
優一が手を上げて言った。
「うん。またいつか、クラス会ででも会おうね」
翔子も手を振りながら頷いた。
二人は公園の出口で左右に別れた。これから仕事へ向かう優一は足早に、
子供を宿している翔子はゆっくりと・・・。
信号は赤だった。翔子は青になるのを待ちながら、小さく歌を口ずさんでい
た。曲は高校時代にリバイバルヒットしていたあの歌だ。
まわるまわるよ 時代はまわる
喜び悲しみ繰り返し
今日は別れた恋人たちも
生まれ変わって めぐり会うよ
もしかしたら、翔子と優一があんな激情にかられたのは、喫茶店でかかって
いたこの歌のせいだったのかもしれない。この歌を聞いた途端、すうっと高校時
代に舞い戻ってしまったような気がしたから。
信号が青に変わり、横断歩道の人の波が溢れ出した。翔子の小さな歌声
も、その人波に紛れて聞こえなくなった。
〜 完 〜