リバイバル2.
優一は、翔子が高校へ入学して最初に口を利いた男子生徒だった。入学
式の翌日、いきなり隣の席から、
「教科書見せて」
と声をかけてきたのだ。
翔子は唖然としてしまった。何しろ入学式の翌日である。教室の中はまだ
緊張感に包まれ、しんと静まり返っていた。クラスの中には、同じ中学校出身
の男子生徒もいたけれど、優一とは初対面だった。こんなに気さくに声をかけ
てくるなんて、一体どういう神経をしているのだろう。入学第一日目から教科
書を忘れてきたというのに、少しも悪びれた様子を見せないことにも驚かされた。
高校というところは、いろんな人がいるものだと思ったものだ。
驚きはそれで終わったわけではなかった。その後も優一は、何かというと翔子
に話しかけてきた。
「話題になってる映画だったから観に行ったけど、ちっとも面白くなかったよ」
というような話から、
「隣のクラスに可愛い子がいるんだよ」
というような話まで、まるで男子生徒にでも話しかけるような口調で話すの
だ。
ついこの間まで顔も知らなかったというのに、たまたま席が隣同士になったか
らといって、すぐにこんな風に親しげな口調で話せるものなのだろうか。高校一
年生といえば、最も強烈に異性を意識する年頃だ。翔子にとってそれはやは
り、驚くべきことだったのである。
ところが優一にはそんな意識はまったくないらしく、
「最近ジャイアンツは調子悪いなあ」
とか、
「おっ、そのスカートかっこいいじゃん」
などと平気で話しかけてくる。またその口調があまりに自然だったので、最初
は何て馴れ馴れしい奴だと思っていた翔子も、いつの間にか優一に親しみを
感じるようになっていた。
二人の仲は、すぐにクラスの噂になった。
「あんまり見せ付けないでくれよな」
冗談交じりに言う男子生徒もいれば、
「翔子と進藤君て、どういう関係なの?」
と真面目に聞いてくる女子生徒もいた。高校生の彼らにとって、それは最大
の関心事だった。大学受験もクラブのレギュラー争いも、恋の噂の前ではかす
んでしまう。
もっとも、その頃の翔子と優一の仲は、ちょっと親しい異性のお友達というだ
けのものでしかなかった。ひやかしの種にされても、それによって変に意識しあう
とか話しにくくなるというようなこともなく、
「よしてくれよ。俺にも選ぶ権利ってものがあるんだぞ」
優一が言えば、
「それはお互い様でしょう。私にだって選ばれる権利があるんだからね」
と翔子が言い返す、という具合だった。その頃の二人の仲を言葉で表したと
したら、恋というよりは友情という言葉に近かっただろう。
それがある日突然、変わってしまった。高校二年の夏の終わりのことだった。
その年の残暑は厳しく、九月の半ばを過ぎてもまだ、過ぎ行く夏が猛威を振
るうように暑い日が続いていた。
ある朝、いつものように教室へ入って行った翔子は、優一の姿を見つけた途
端、ドキンとしてその場に立ち止まってしまった。身体がのぼせたように熱くなり、
胸がドキドキと高鳴った。急に自分の汗や陽に晒された髪の匂いが気になっ
た。これは一体、どういうことだろう。
「あ、翔子、おはよう」
何も知らない優一がいつものように話しかけてきた。翔子は自分の狼狽振り
を悟られまいと、ひたすら鞄の中身を出すことに熱中している振りをしていた。
「どうしたんだよ、翔子」
優一が不思議そうに言った。
「何かあったのか?」
翔子はびくっとして顔を上げた。その顔を、優一が心配そうに覗き込んでくる。
翔子はいたたまれないような気持ちになった。何だか呼吸さえ、うまくできない
ような気がする。
「・・・何でもない」
ぶっきら棒にそう言うと、翔子はその場から逃げ出すように由香里や美奈子
たちのいる方へと駆けて行った。おそらく優一には、何が何だかわからなかった
に違いない。
その日を境に、翔子は優一の顔をまともに見ることができなくなってしまった。
話しかけられても普通に声を返すことができなくなり、
「教科書見せて」
と言われても断るようになった。
原因はわかっていた。翔子は優一のことが本当に好きになってしまったので
ある。遠慮なく話ができるのも、冗談を言い合えるのも、ただの友達だったから
できたことで、好きになってしまった以上、面と向かって口を利くことなどとても
できそうになかった。まして、顔を近づけて一冊の教科書を覗き込むことなど、
できるはずがなかった。
それに翔子には、ちょっと意地っ張りなところがあった。これだけ噂になって
いるのだから、自分の方から好きだと認めてしまうのは癪だった。優一の方か
ら何かアプローチをしてくるまでは、口が裂けても好きだなんて言うものか。早く
そのきっかけを作ってくれないかとやきもきしながらも、翔子はわざとよそよそし
い態度を取ってしまうのだった。
途端に生徒たちは、いろいろと噂しあった。
「翔子と遠藤君、絶交したらしいよ」
「翔子に好きな男でもできたんじゃないか?」
「違うわよ、遠藤君が別の女の子を好きになっちゃったのよ」
みんな、翔子と優一の仲がどうなるのか、興味深々のようだった。
翔子は噂を耳にする度に、ムキになって否定したり、誰がそんなことを言い
出したのか追求しようとした。もし優一がそんなことを真に受けたりしたら、取り
返しがつかなくなってしまう。
それに、優一の方の噂も気になった。いろんな噂を耳にしているうちに、翔子
はすっかり自信をなくしてしまったのだ。おかげで益々よそよそしい態度をとるよ
うになり、二人の仲は一向に恋に進展する気配はなかった。
そんなわけで、翔子と優一がお互いの気持ちを確かめ合えたのは、高校三
年生に進級してからだった。高校生活はあと一年しかないのだからと、見るに
見かねた由香里と美奈子がこっそり翔子の気持ちを伝えてくれたのだ。
優一はすぐに電話をかけてきた。
「俺だって、ずっと翔子のことが好きだったんだぞ」
その言葉が受話器の奥から聞こえてきた時、翔子は本当に目の前がバラ
色になったような気がした。随分やきもきしたり不安になったりしたけれど、待っ
ていて良かったと思った。もし自分の方から電話をかけたのだったら、これほど
の喜びは感じられなかっただろうから。翔子はそのひと言が聞きたいがために、
半年以上も意地を張り続けたようなものだった。
ようやく両思いになった翔子と優一は、無駄に過ごした時間を埋めるかのよ
うに、頻繁にデートを重ねた。映画を観に行ったり、スポーツの試合を観戦し
たり、図書館で一緒に試験勉強をしたり・・・。
生徒たちは、
「やっとあいつらも、その気になったか」
「あの二人は最初から、そうなる運命だったのよ」
と噂しあった。そして、理想的なカップルだと羨ましがった。二人は誰の目に
も幸せそうに見えた。
けれどもそれは、あくまで人の目から見て、ということだった。翔子は自分と
優一の気持ちに、微妙なズレが生じ始めていることに気付いていた。翔子が
以前と同じような友達付き合いを望んでいるのに対して、優一は恋人同士と
しての付き合いを望んでいるようだった。
それは、優一のちょっとした態度にも表れていた。街へ出かけて二人並んで
歩く時、優一は手をつなごうとしたり、肩を抱こうとしたりする。喫茶店で向か
い合っている時、髪や頬に触れようとしたり指を握ろうとしたりする。そういう優
一の仕草ひとつひとつが、翔子には何かとても不潔めいて感じられた。そんな
ことをしなくても、お互いの気持ちは充分分かり合えていると思っていた。なの
に優一の方は、そうではないらしい。優一が肩や髪に触れる度に、自分の思
いが汚されていくような気がした。
翔子は段々優一を避けるようになった。電話で話をしていても素っ気ない態
度を取るようになり、一緒に出かけようと誘われても断るようになった。当然、
二人の仲もギクシャクし始めた。
翔子は悩んだ。優一のことが嫌いになったわけではなく、むしろ以前よりずっ
と好きになっていたから尚更だった。こういう時、どんなふうに説明すればわか
ってもらえるのだろう。考えても考えても、いい知恵は浮かんでこなかった。
「翔子が心変わりしたらしい」
という噂が流れたのは、丁度そんな時だった。根も葉もない噂だったけれど、
翔子は否定しなかった。もう周囲の噂に振り回されるの、はうんざりだったの
だ。
翔子は再び待つことにした。たとえどんな噂が飛び交おうとも、お互いの気
持ちが強ければ二人の仲は揺るがないはずだ。その程度で駄目になるような
仲ならば、最初からそれだけのものでしかなかったのだろう。翔子は少女の潔
癖さで、恋をそんなふうに捉えていた。
でもそれは、いつもの翔子の意地っ張りの癖だったのかもしれない。そんな噂
はでたらめよと、ひと言言っておきさえすれば、優一との仲も元通りになれたか
もしれなかったのだから。
いつまで待っても、優一は声をかけてはくれなかった。おそらく噂を本当だと
思い込み、口を利く気も失くしてしまったのだろう。つまらない意地を張ったば
かりに、優一の心は離れていってしまった。だったらもっと早く、本当のことを言
っておけばよかった・・・。翔子は初めて自分の愚かさに気付いたが、もうどうす
る術もなかった。二人の仲は自然消滅した形になり、言葉を交わす機会もな
いまま、卒業してしまったのだった。