リバイバル1.


 地上は太陽光線の海と化していた。地下鉄の階段口から出た途端、佐伯
翔子は夏の日差しの眩しさに軽い眩暈を起こした。視界が急に狭まり、眩し
いぐらい明るいはずなのに、目の前がすうっと暗くなるのがわかった。
「あぶない!」
 背後で男の声がした。男が背中を支えるのと、翔子の身体が後ろへ傾いた
のはほとんど同時だった。
 一瞬、何が起こったのかわからなかった。危うく階段のてっぺんから、まっさ
かさまに落っこちるところだったと気付いたのは男に助け起こされてからだ。
「大丈夫ですか? 顔が真っ青ですよ」
 そう言って覗き込んできた男の顔に、何となく見覚えがあった。男も翔子の
顔を見つめたまま、声を失っている。
「進藤君!」
「翔子!」
 二人は同時に声を上げた。
 翔子が昏倒するのを助けたのは、高校時代の同級生、進藤優一だった。
女子生徒をからかうことを生きがいのようにしていたやんちゃ坊主のようだった
優一は、サマースーツをきちんと着こなす精悍な大人の男になっていた。もしこ
んな風に声をかけられなければ、それが優一だとは気付かなかっただろう。
 もっとも、それは翔子にも言えることだった。髪も化粧も外出用に整え、小花
模様のワンピースに身を包んだ女から、すぐに鼻っ柱の強いお転婆少女だっ
た翔子を連想するのは難しい。
 高校を卒業してから十四年、大学時代に開かれたクラス会から数えても十二
年の月日が流れている。どこかで顔をあわせても、とっさに名前を思い出せな
くて困ってしまう、ということがあっても不思議ではない。十四年という年月には、
それだけの重みがあった。
 それが銀座の街中でこんな再会の仕方をするなんて、奇遇としか言いようが
なかった。机を並べて授業を受けていた高校時代、翔子と優一の間には、ち
ょっとした結びつきがあったのだ。
「久しぶりだね、何年ぶりぐらいかな」
 優一が懐かしそうに言った。様変わりしてしまった優一も、声だけは高校時
代とあまり変わっていなかった。懐かしい響きに、翔子の胸は揺らめいた。
「クラス会があったのが大学2年の時だから、丁度十二年ぶりじゃない?」
「そうか、もうそんなになるのか……。だけどクラス会の時はひと言も話さなか
ったから、正確には高校卒業以来だよ」
 その言葉は翔子の胸にちくりと刺さった。
「……そうね」
 翔子は頷きながらバッグの中からハンカチを取り出して、噴き出した汗を拭う
ために横を向いた。
 まだ何もわからなかった少女の頃の思い出が、急速に脳裏に蘇ってきた。
本当なら、こんな風に昔と変わらぬ口調で話す資格など、翔子にはないはず
だった。たとえそれが、友達の噂話から生まれた誤解だったとしても……。
 優一が言った。
「そういえば、あいつらどうしてる? 翔子と仲の良かった石田とか西山とか…
…」
「みんな元気よ。由香里はもうすぐ二人目の子供が生まれるし、美奈子は去
年の秋にやっと結婚して、今、新婚さんしてる」
「へぇ〜、あいつらでも結婚できたのか。信じられないけどなぁ」
 いたずらっぽく笑いながら優一が言った。その笑顔に高校時代の面影を見
つけた翔子は、そっと視線を逸らせた。引いたはずの汗が、再び滲んでくるの
がわかった。
 翔子は言った。
「進藤君、仕事の途中でしょう?」
「ああ。夕方からクライアントと打ち合わせなんだ」
「私も買い物の途中だから」
「そうか……」
 優一の目が急に翳った。昔から優一の瞳は、こんな風に表情が豊かだっ
た。
「じゃあ……」
 自分の気持ちを振り切るように翔子は言った。
「うん。じゃあ、また……」
 優一が頷いた。
 二人は地下鉄の階段口の前で別れた。翔子はまっすぐ前を見つめたまま、
どんどん歩いていった。少しでも目を伏せたり歩調を緩めたりしたら、振り向か
ずにはいられなくなってしまう。そして、振り向いたらきっと……そんな自分が怖
かった。
 横断歩道の信号が点滅していた。今、渡らなければいけない。そう思った瞬
間、後ろから肩を掴まれた。
「せっかく十二年ぶりに会ったんだから、一緒にお茶でも飲もうよ」
 走ってきたらしく、優一は少し息を切らしていた。整えられていた髪も額にか
かっている。その顔が、高校時代の優一の顔とだぶって見えた。

 二人は近くにあった小さな喫茶店に入った。木製の大きなカウンターの他に
は、ボックスシートが四つきりという、昔風の造りの店内には有線放送が流れ
ていた。
「今、どんな仕事してるの?」
 優一は大学卒業後に広告会社に就職し、主に雑誌や新聞の広告を担当
していたが、2年ほど前に独立して事務所を構えたという。スタッフ4人の小さ
な事務所だが、新聞の折り込み広告からタウン誌の枠広告まで様々な仕事
を取り扱い忙しい日々を送っているという。
「時々何もかも投げ出して、逃げ出したくなるよ」
 そう言って笑った。広告制作の苦労話を面白おかしく聞かせてくれ、翔子は
声を立てて笑った。
 そういえば優一は高校時代から、ちょっとしたことを面白く話して聞かせるの
がうまかった。それが今の仕事にも、プラスに働いているのかもしれない。洋々
と仕事の話をする優一の顔を見て、翔子は何故かほっとするような気持ちだ
った。
 その時、店内に流れる有線放送の曲が変わった。

  今はこんなに悲しくて
  涙も枯れ果てて
  もう二度と笑顔には
  なれそうにないけど

「あっ」
 翔子は小さく声を上げた。
「え?」
 優一も話を止めて目を瞠った。

  そんな時代もあったねと
  いつか話せる日がくるわ
  あんな時代もあったねと
  きっと笑って話せるわ
  だから今日はくよくよしないで
  今日の風に吹かれましょう

「この歌覚えてない? 確か、私たちが高校生の時、流行ってたと思うけど」
 随分前にヒットしたこの曲は、「時代」という女性シンガーソングライターのデ
ビュー曲だった。それが翔子たちが高校生の頃、映画のイメージソングに使わ
れ、出演していた女優が澄んだ声で歌い上げリバイバルヒットした。

  まわるまわるよ時代はまわる
  喜び悲しみ繰り返し
  今日は別れた恋人たちも
  生まれ変わって巡り合うよ

「私、この歌大好きだったんだ。今でも懐かしのヒット曲なんて番組でやってる
と、いい歌だなぁって思うんだよね」
 翔子の口調は、すっかり高校時代に戻っていた。頭の中に当時の思い出が、
次々と浮かび上がってくる。
 真っ黒に日焼けしてクラブ活動の練習に明け暮れた日々。試験前、みんな
でノートを貸し合って対策を練ったり、授業中先生の目を盗んではお喋りをし
たこと。友達と大喧嘩したこともあったし、失恋して泣いたこともあった。今思え
ば他愛ないことばかりなのだけれど、あの頃はみんな純粋で、今よりずっと一
生懸命生きていたような気がする。
 優一が頷きながら言った。
「そうだな、俺もこの歌は好きだったな」
 そして翔子の目を見つめ、にっこり微笑んだ。
 翔子は慌てて目を逸らし、窓の外へと向けた。まるで少女のように、ドキドキ
と胸が高鳴ってくるのがわかった。真夏の陽射しが照りつける街並みは、妙に
ひっそりしていて静けさに包まれているように見えた。
「翔子と一緒にこんな歌聴いてると、高校時代に戻ったみたいな気がするよ」
 翔子はそっと優一の顔を窺った。優一は微笑んだままだ。そのまなざしは、
十五年近い年月が流れた今でも、昔と変わっていない。
 昔から、優一が翔子を見つめるまなざしには、こんなふうに優しい光が宿って
いた。

 

 

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