窓辺の花6


 翌日は快晴だった。果てしなく続きそうに思えた梅雨も中休みを取ったのか、
朝から汗ばむほどの強い陽射しが照りつけた。香苗は朝から大々的に、洗
濯をすることにした。箪笥の中から家で洗える夏物を全て取り出し、片っぱし
から洗濯機の中に放り込んだ。ポロシャツやTシャツ、コットンパンツに木綿の
ワンピース、香苗の夏の普段着が次々と物干し竿に吊るされた。昨夜邦彦が
言ったことは、聞かなかったことにしようと思った。あれぐらいで落ち込んでいる
ようでは、一人暮らしの独身女なんてとてもやっていられない。一人暮らしさえ
したことのない邦彦に、一人暮らしの女の気持ちなんてわかりっこないのだ。
 洗濯が終わると次は掃除だ。まず部屋中にハタキと掃除機をかけ、床や桟
を雑巾で拭く。それが終わると窓ガラスを磨き、キッチンのガス台と換気扇をき
れいにした。普段は浴槽しか洗わないバスルームは、専用のスポンジで腕が
痛くなるほど磨き上げた。随分働いたような気がしたが、掃除を終えて時計を
見るとまだ十二時前。冷蔵庫を覗くと、何日か前にスーパーの安売りで買っ
たレトルトのチキンピラフがあったので、先にシャワーを浴びてからお昼にするこ
とにした。
 バスルームへ行く前に、香苗はもう一度部屋の中を見回した。隅の方に置
きっぱなしにしてあった雑誌や小物類も片付けたし、キッチンの水回りもきれい
にした。窓ガラスはピカピカだし、床には塵一つ落ちていない。掃除の仕方は
完璧だった。一人暮らしの生活なんて簡単なものだと香苗は思った。掃除も
洗濯も食事も、少しの時間で片付いてしまう。まるで存在そのものが、簡単に
消えてなくなってしまうとでもいうように。
 そういえば、西岡との別れも実に簡単なものだった。あれは去年の夏の初め、
同僚たちがそろそろ夏休みの計画を話題にしはじめた頃だった。これ以上
付き合うのはやめにしたい……。その日、香苗はようやくその言葉を口にする
ことができた。それは、いつかは言わなければいけないとわかっていながら、どう
しても言うことのできなかった言葉だった。 けれども、それを聞いた西岡の反
応はあっさりしたものだった。
「香苗がそうしたいっていうなら、そうするしかないのかもしれないな」
 まるでちょっとした旅行に行く計画を、キャンセルするみたいな言い方だった。
「いつまでもこのままってわけにもいかないし、お互い自分の立場を考えなきゃ
いけない時期にもきてるしな。別れるのは辛いけど、それが一番いいのかもしれ
ないよ」
 そういう結論に達するだろうということは、香苗にも予想が付いていた。だか
らこそ、永い間言うことのできなかった言葉を口にする決心がついたのだ。けれ
ども心の隅っこに、ほんの少し期待するような気持ちが残っていたことも事実
だった。
「俺にはお前が必要だ」
 そんな言葉を、西岡が言ってくれるかもしれないということを。邦彦の言ったこ
とは本当だ。男は自分だけを理解してくれる女を選ぶ 。西岡もそうだった。彼に
必要だったのは、ただ自分だけを理解して愛してくれる女でしかなかった。水木
香苗という、一人の人間ではなくて……。
 シャワーを浴びて昼食をすませると、香苗は昼寝をしないで散歩に出かける
ことにした。こんなにいいお天気に、部屋の中にいてはもったいない。それに今
日は、何もしないで一人で部屋にいることが何となく恐いような気もした。
 階段を下りていくと、井上さんの後ろ姿が見えた。香苗はとっさに駆けだして、
「井上さん」
 声をかけた。
「あ、こんにちは」
 井上さんが振り返った。香苗は一気に言った。
「井上さん、今日は何か予定あります? 何もなかったら、後で一緒にお茶し
ません?」 思い付きでしかなかったが、その気持ちに嘘はなかった。井上さん
は一瞬驚いたように目を瞬き、
「ごめんなさい、今日はこれから親睦会の集まりがあるの」
 申し訳なさそうに言った。
「バザーに出すエプロンや枕カバーなんかを縫うんだけど、その後みんなでお茶
するだろうから、帰ってくるのは夕方になっちゃうと思うのよ」
「そうですか……」
 香苗はビデオテープを巻き戻して、今の場面を消去してしまいたい気持ちに
なった。あんなに何度も誘いを断っておきながら、今更井上さんに縋ろうとする
なんて虫がいいにもほどがある。
「何か話したいことでもあった?」
 井上さんが心配そうに顔を覗き込んできた。香苗は慌てて笑顔を作って首
を振った。
「そんなんじゃないんです。いつも誘ってもらってたんで、今日あたりどうかと思っ
ただけですから」
「そう。じゃあ、また今度ね」
 笑顔で言い、井上さんは階段を下りていった。
「遅いわよ、井上さん」
 エントランスの方から、奥さんたちの声が聞こえてきた。
「遅れたことのない人がどうしたのよ」
「ごめん、ちょっとモタモタしちゃって」
「遅れた罰に、今日のお茶代は井上さん持ちね」
「ひどーい」
 後は賑やかな笑い声。香苗は耳を被いたい気持ちだった。どうして親睦会
に参加しなかったのだろう。参加さえしていれば、あの笑いの輪から外されるこ
ともなかったのに。できることなら今からでも、あの輪の中に戻りたい。でも、戻
れないのはわかっている。そうさせたのは、他の誰でもない香苗自身なのだか
ら……。
 その夜、香苗はなかなか寝つけなかった。何度も寝返りを打ち、魚の喘ぎの
ような溜息を繰り返した。リラックスできるというヨガの呼吸法をしてみたり、寝
酒用のワインを飲んでみたりしたのだが、少しも眠くなってくれない。眠ろう眠ろ
うとすればするほど、ますます目が冴えてくる。耳を澄ますと、どこからかあの笑
い声が聞こえてきそうな気がする。フフフ、フフフ、フフフフフ……。
 眠れないのは、その夜だけではなかった。その次の夜も次の夜も、眠れない
日が続いた。それでも朝になれば、自然と目が覚める。目の奥が、神経を引っ
張られているように痛い。身体は鉛でも詰め込まれたみたいに重たいし、立ち
上がると脳みそがぐるりと回転するような気がする。香苗は何をする気にもな
れなくて、ほとんどベッドの中で過ごした。お茶を飲む気にもなれないし、音楽を
聞く気にもなれない。窓辺の花には、目を向けるのも嫌だった。
 自分は間違っていたのだろうか……香苗は何度も考えた。会社をやめたこと
も、一人暮らしを始めたことも、西岡と恋をしたことも、本当はしてはいけないこ
とだったのかもしれない。だけどどう仕様がある? どんなに後悔してみても、二
十五歳の自分に戻ってやり直すことなどできないのだ。終わったことは仕方が
ない…… 一生懸命そう思って気持ちが軽くなりかけても、結局何も変わって
いないことに気付いてすぐに元に戻ってしまう。こんな気持ちは、おそらく誰にも
わかってもらえないだろう。
 香苗はふと、職安の帰りに声をかけてきた女の子の顔を思い出した。何の
屈託もないような柔和な笑み。香苗が邪険にしても、その笑顔は少しも曇らな
かった。あれはどうしてなのだろう。やはり、宗教という強い基盤に支えられてい
るからなのだろうか。香苗はもう一度、彼女に会ってみたいと思った。彼女に
会って、話をしてみたい。彼女なら、この目に見えない嫌なものに被いつくされ
てしまったような気持ちを、わかってくれるかもしれない……。

 

 

 

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