窓辺の花5


 翌日から、奥さんたちの態度がガラッと変わった。階段やエントランスで出会
っても、もう誰も声をかけてくれなくなった。親睦会に参加しないので、仲間の
輪から外されてしまったらしい。最初はそれに気付かずに、自分の方から声を
かけたりしていたのだが、みんな表情を硬くして目を逸らすようにして行ってしま
う。井上さんだけは笑顔で声を返してくれるのだが、立ち話まですることはない。
 もちろん、井戸端会議に引き込まれることもなくなった。香苗が傍を通っただ
けで、ピタッと話し声が止む。いい気持ちはしなかったが、仕方のないことと諦
めることにした。話の輪に入れてもらえないのは淋しいような気もするが、だから
といって親睦会に参加する気にもなれない。それに、香苗には他にしなければ
ならないことがある。
 香苗は邦彦の会社に電話をかけて、部屋に来るよう言いつけた。母のこと
を、少し話しておきたいと思ったからだ。敬遠したくなるのはわかるが、少しぐら
い母の気持ちもわかってあげてほしかった。母も本当は淋しいのだろうと香苗
は思う。それがうまく表現できなくて、あんな意地悪ばあさんみたいになってしま
うのかもしれない。
「わかったよ。その代わり、晩飯食べさせてくれよな」
 邦彦はシブシブながらも承諾した。
 電話を切ると、香苗はすぐに夕食の買い出しに出かけた。スーパーへ行くと
鰹の半身があったので、たたきを作ることにした。付け合わせはほうれん草とし
めじのおひたしで、ビールのつまみは明太子とチーズのワンタン包み。ちょっと
奮発して、デザートにマスクメロンを買った。こんなに買い物をするのは滅多に
ないので、香苗は浮き立ったような気分になった。大きく膨らんだ手提げ袋は、
それだけで幸せの象徴のように見える。
 簡単に部屋の掃除をしてから、夕食の準備に取りかかった。自分以外の為
に食事を作るというのも、滅多にないことだ。少し考えて、香苗はウエッジウッ
ドの食器を取り出した。普段は眺めるだけにしているのだが、思い切って使う
ことにした。料理の手順は、どんどん進む。ワンタンの皮に具を包むという面
倒な作業も、ちっとも苦にならない。いつもはしたことのない味見も何度もした。
こんなに料理が好きだったとは、今まで自分でも気付かなかった。
「完璧じゃない」
 支度の整ったテーブルを眺めて、香苗は一人呟いた。料理のできも盛り付
け具合も、なかなかのものだった。真新しい食器が、料理のできを更に際立た
せている。邦彦が見たら、どんな顔をするだろう。きっと目を丸くして、姉の存
在を再確認するに違いない。早く
来てくれればいいのに……そう思った時、玄関の方から足音が聞こえてきた。
何というタイミングの良さ。香苗は走って玄関を開けにいった。
「ただいま」
 ドアの向こうから聞こえてきたのは、井上さんのご主人の声だった。
「お帰りなさい、早かったのね」
 夫を迎え入れる井上さんの声がした。
「うん、思ったより早く仕事が終わったんだよ」
「パパ、お帰り」
「はい、ただいま帰りましたよ」
 ドアの閉まる音がして、辺りに夜の静寂さが戻った。香苗は静かに部屋へ
戻り、ソファに腰を下ろした。何をやっているのだろうかと思った。どんなに料理
の出来ばえがよくても、食べる相手は香苗の弟でしかない。
 邦彦がやって来たのは八時半過ぎだった。
「女の部屋に入るのって、何か緊張しちゃうよなあ」
 玄関を開けるなり、大きな声で言った。香苗は慌ててドアを閉めた。
「ちょっと、大きな声出さないでよ。近所に聞こえたら、何言われるかわからな
いじゃない」
「何で? 弟が来てたって言えばいいじゃないか」
「そんなこと、信じてくれるような人たちじゃないのよ。ちょっとしたことでも、もの
すごい話に仕立て上げちゃうような人たちなんだから」
「ふうーん。一人暮らしっていうのも、いろいろ大変なんだなあ」
 そんなことを言い合いながら、二人はテーブルの前に腰を下ろした。
 料理の様子は、出来上がった時とはすっかり変わってしまっている。あの後、
香苗は使い古しの皿を出し、できるだけいい加減に盛り付けし直した。他の
食器も全て片付けて、古い物と取り替えた。あの食器は、香苗がこのマンショ
ンに入居する時に、さんざん迷った末に買ったものだった。それも、一人分でな
く二人分。無駄だとわかっていてもセットで買ったのは、香苗の意地だったの
かもしれない。西岡に対してというよりは、自分自身に対しての……。その食
器を、弟と食事をするために使うわけにはいかなかった。本当は料理も全部
捨てて宅配ピザでも頼もうかとも思ったのだが、そこまでこだわることもないと思
い直した。料理を振る舞う相手が弟でも、誰もいないよりはましだった。
 さっそくビールで乾杯し、食事を始めた。邦彦はまだ落ち着かないらしく、あ
ちこちキョロキョロ見回している。前に何度か遊びにきたことはあるが、いつも
美代子が一緒だった。
「何か、部屋の感じが変わったね」
 邦彦が言った。
「そう? 特に模様替えしたってこともないけど」
 香苗も一緒に部屋の中を見回していると、
「わかった、あれだよ」
 邦彦が出窓の鉢植えを指さした。
「前はあんな所に、花なんか飾ってなかったぜ。どういう心境の変化だよ」
「別にどうもしないわよ。ただ、ここに花を飾ったらいいんじゃないかと思っただけ」
「そうかねえ」
 邦彦は疑わしげにニヤついている。
「あんたこそどうかしたんじゃない? 前はそんなこと、気が付くようなタイプじゃ
なかったのに」
「まあ、これでも一家の主として妻子を養ってますからね。変わって当然ですよ」
「偉そうに」
 香苗は思わず吹き出したが、満更嘘とも言えないなとも思った。しばらく会わ
ないうちに、確かに邦彦は変わったようだ。どこがどうとは言えないが、何かど
っしりとした落ち着きみたいなものが備わってきたような気がする。以前のふわ
ふわとした頼りなさは、今は全く感じられなかった。家庭を持つということは、そ
ういうことなのだろうか。
「それより話って何?」
 邦彦が聞いてきた。
「うん……、美代子さんのことなんだけど」
 香苗はできるだけさり気なく話を始めた。
「もう少し、お母さんの所へ顔を出してもらえないかと思って。お母さん、本当
は淋しいんだと思うのよ。あんたも私もいなくなっちゃったし、お父さんはあの通
りの人だし……。美代子さんが孫の顔でも見せにきてくれたら、少しは明るい
気持ちになれるんじゃないかと思って」
「そのことか」
 邦彦は露骨に嫌な顔をした。
「お袋の気持ちもわからなくはないけど、その責任を全部俺たちに押しつけら
れてもなあ」
「押しつけるつもりなんかないわよ。ただ、お母さんの気持ちも少しはわかってあ
げてほしいってこと」
「姉貴」
「え?」
「姉貴は今、いくつだ?」
「三十よ。十月には三十一になります」
 香苗はちょっとむっとした。
「だったら少しは大人になれよ。全然親離れしてないじゃないか」
「どういうことよ」
 香苗はますますむっとした。人が真面目に話しているのに、茶化すようなこと
を言われるのは心外だ。
「怒るなって」
 邦彦がやれやれというように言った。
「姉貴の言いたいことはわかるよ。美代子だってそう言われれば、嫌とは言わ
ないだろうさ。だけど、それじゃあ何の解決にもならないじゃないか。問題は、親
父とお袋の関係にあるんだからさ」
 香苗は変な気持ちになった。邦彦の言うことは、わかるようでわからない。そ
れでも邦彦の言うことが、正しいような気もすることも確かだ。
「お袋は、もっとちゃんと親父と向き合うべきなんだよ」
 邦彦が言った。
「親父が自分の方を向いてくれないなら、どうして向いてくれないんだってぶつ
かっていけばいいんだよ。どんどんぶつかっていって、派手な夫婦喧嘩でもすれ
ばいいじゃないか。親父とお袋、もう随分喧嘩してないだろう? 何もしないで
待ってるだけじゃ、親父だって変わりっこないよ」
 確かに邦彦の言う通りだ。香苗は父と母が喧嘩する姿を、ほとんど見たこと
がない。それは、一見穏やかな関係のように見えて、実は相手と本当には向
き合っていないということなのかもしれない。でも……。
「邦彦の言うことはよくわかる。正しいとも思う。でも、私はお母さんの気持ちも
わかるのよ」
 香苗は静かに泣いていた母の顔を思い出した。あの顔に向かって、ぶつかっ
ていけとはとても言えない。邦彦だってあの顔を見たら、そんなことは言えない
だろう。いや、言ってほしくなかった。
「姉貴は誰の気持ちもわかっちゃうからな」
 邦彦が苦笑しながら言った。
「姉貴のそういうところ、俺はすごくいいと思うよ。人間として、立派だとも思う。
だけど、女としてはどうかな。男って、結局自分だけをわかってくれる女を選ぶ
もんだぜ」
 香苗は自分の顔が歪んだのがわかった。
「それにあの花、あれはやめた方がいいんじゃない? 一人暮らしの女が窓の
所に花なんか飾るようになったら、要注意なんだってさ。それだけ、一人暮らし
が板に付いてきたってことらしいよ」

 

 

 

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