また西岡の夢を見た。今度はどこかの住宅地を、女の子をはさんで影法師
のような男と女が並んで歩いていく姿だ。女の子は両側から手を繋がれて歩
いている。その手は離れそうでいて、決して離れることはなかった。そしてまたあ
の笑い声、フフフ、フフフ、フフフフフ……。その笑い声に、男と女の笑い声が
重なった。
やっぱりおかしいと香苗は思った。一度だけでなく、二度も西岡の夢を見る
なんて。それも顔や姿は見えなくて、声だけが聞こえてくる。男と女と女の子、
三人の笑い声が耳の奥から離れない。フフフ、フフフ、フフフフフ……。身体の
中に少しずつ、嫌なものが溜まっていく。最初は塵のようなひとかけら。それが
だんだん大きくなり、今にも香苗の身体を被いつくしてしまいそうになる。
香苗はフラフラと立ち上がり、バスルームへ行った。トイレの便座に腰を下ろ
すと、下着にうっすら赤い染みがついている。もう来たのか……香苗は眉をひ
そめて目を閉じた。そういえば、昨日の晩から腰の辺りが重かった。身体も少
しだるいようだし、下腹に鈍い痛みもある。変な夢を見たり気持ちがふさぎ込
んだりしたのは、そのせいだったのかもしれない。
洗面台の下から生理用タンポンを取り出し、いつものように処置をする。どう
して毎月毎月、こんなことをしなければならないのかと思う。結婚でもしている
ならともかく、自分には何の必要もないことなのに。たとえば子供が欲しいと思
う人にだけ、生理が来るようにする薬はないのだろうか。この赤い色を見る度
に、早く結婚しろ、結婚して早く子供を産め、とせっつかれているような気がし
て仕方がない。
部屋に戻ると、香苗はお湯を沸かしてハーブティーを入れた。勤めていた頃、
会社のクーラーにやられて体調を崩した時、先輩に薦められて飲むようになっ
たお茶だ。身体の血行を良くし、新陳代謝を促す効果があるという。大して期
待もせずに飲みはじめたのだが、本当に体調が良くなったのでその後も続け
て飲んでいる。ほんのり甘酸っぱいお茶を一口飲んだだけで、早くも胃の辺り
から温かさが広がってくるのがわかる。窓辺の花に目をやると、そこだけ緑が
くっきり浮き上がってみえる。
自分には無用に思える生理も、一度だけ来てくれてよかったと思ったことが
あった。あれは確か、西岡に二人目の子供が産まれる半年ぐらい前のことだ
った。それまで遅れたことのなかった生理が、その月に限ってなかなか来なかっ
た。最初は気にも止めていなかったのだが、四日、五日と過ぎていくうちにだん
だん心配になってきた。もちろん避妊はしていたが、百パーセント大丈夫という
わけではないということは雑誌などで読んで知っていた。西岡に相談することは、
初めから香苗の頭になかった。ちょっと遅れているだけかもしれないし、余計な
心配をかけたくもなかった。それに、西岡がどんな態度をとるか、知るのが恐
いような気持ちもあった。
結局、生理は一週間遅れでやって来た。香苗はほっとすると同時にいたず
ら心も湧いてきて、
「私、生理が遅れてるの」
西岡に言ってみた。すぐに大丈夫だったと言うつもりだったのだが、
「え?」
西岡が顔色を変えた。あまりの反応の大きさに香苗の方が驚いていると、
「まさか、産みたいなんて言わないよな」
西岡が言った。
「もちろん産むか産まないかは、香苗が決めることだとは思うよ。だけど今の俺
たちは、それを喜べるような状況じゃないからね」
香苗は目を大きく見開いて、西岡の顔を見つめた。何のためにそんなことを
言うのか、わからなかった。
「それに……」
言いながら、西岡が卑屈な目で香苗の顔を覗き込んだ。
「香苗だって、未婚の母になんかなりたくないだろ」
香苗の西岡に対する気持ちが崩れはじめたのは、その時からだったのかもし
れない。たとえ本当に妊娠していても、香苗には産むつもりなどなかった。もち
ろんそれを楯にして、西岡に結婚を迫るようなことをするつもりもなかった。そん
なことは全て承知の上で、西岡との付き合いを始めたのだ。香苗はただ、不
安な気持ちで過ごした一週間を一緒に笑い飛ばしてほしかっただけだ。
ピイー
笛吹きケトルが鳴った。香苗はもう一杯お茶を入れるために、マグカップを持
って立ち上がった。
午後、香苗は急に思い立ち、プールへ行く準備をした。部屋にばかりこもっ
ていると気が滅入って仕方がないので、区民体育館の室内プールへ泳ぎにい
くことにした。五、六年前に新しく建てられた区民体育館は、ジムやスタジオの
設備も整っていて、ちょっとしたスポーツクラブ並みにできている。以前は月に
一度ぐらいしか行けなかったのだが、会社をやめてから毎週行くようになった。
プールやジムで思い切り身体を動かすと、中に溜まっている嫌なものまで汗と
一緒に流れ出ていくような気がする。
区民体育館前でバスを降り中へ入っていくと、入場券売り場前におばさんた
ちの一団が陣取っていた。入るところなのか出たところなのか知らないが、お
喋りに夢中で券を買う人の邪魔になっていることに気付かないらしい。
「すみません」
香苗が声をかけるとようやく気付いたらしく、
「あ、ごめんなさい。邪魔だったわね」
口々に言いながら、ロビーの方へ移動していった。平日にも体育館を利用す
るようになって、香苗が一番驚いたのがこのおばさんたちの多さだ。土日は男
性や若い女の子たちの利用者も多いのだが、平日の体育館はおばさんたち
に占領されているといっても言いすぎではない。中には学生や若奥さん風の利
用者もいるのだが、おばさんたちのパワーに圧倒されて隅の方で小さくなって
いる。
ロッカールームで水着に着替えプールサイドに下りていくと、丁度水泳教室
の時間らしく何人かずつ列になって泳いでいた。体育館の利用者の中でも、こ
こは特におばさんたちが多いような気がする。それも母と同い年ぐらいかもっ
と上の人たちが、コーチの指導を受けながら真剣な表情で泳いでいる。途中
で音を上げるような人は一人もいない。みんな少しでも上達しようと、一生懸
命練習している。
初めてそれを見た時、香苗はつくづく感心してしまった。よっぽどみんな、泳ぐ
ことが好きなのだろうと思った。けれども何度か見ているうちに、そら恐ろしいよ
うな気持ちになってきた。この一生懸命さは、一体どこからくるのだろう。体力
だけなら香苗の方があるはずなのに、とてもついていけそうにない。そうまでして
泳がなければならない何かが、彼女たちの中にあるということなのだろうか。そ
れともその何かを得るために、こんなに必死で泳いでいるのだろうか。
軽く準備運動をしてから、香苗は隅のフリーコースへ行った。ゴーグルを付け、
頭まで水に潜ってからゆっくりと泳ぎだす。まずはクロールで一往復、軽く流す
感じで泳いだ。まだ筋肉がほぐれていないせいか、腕の上がりが悪い。たった
五十メートル泳いだだけで、かなり息が切れた。呼吸を整えてからもう一往復。
今度は腕もスムーズに上がり、さっきより楽に泳ぐことができた。呼吸の乱れ
も、それほどひどくはない。身体が慣れてきたところでもう一往復、今度はブ
レストで泳いだ。身体が水に乗り、グングンスピードが上がる。
「あなた、上手ねえ」
スタート台に戻ってくると、水泳教室で順番待ちをしているおばさんたちが声
をかけてきた。
「私もそれぐらい泳げたらいいけど、なかなかうまくならないのよ」
丁度一休みしようと思ったところだったので、香苗はゴーグルをはずしながら
答えた。
「そんなことないですよ。みなさん、すごくお上手ですよ」
「ううん。やっぱり若い人は、私たちとは違うわよ。軽く泳いでても、全然切れが
違うもの」
「そうですか?」
「そうよ。私たちはどんなに必死で泳いでも、何かしゃきっとしないのよね」
「自分で言ってちゃ仕様がないじゃない」
おばさんたちが笑い声を上げ、香苗も一緒に笑ってしまった。そら恐ろしいよ
うな気がしていたおばさんたちも、話してみると結構気さくで面白い。
「はい、そろそろ練習に戻ってください」
コーチの声が飛んできた。
「お喋りしててもうまくなりませんよ」
「あ、怒られちゃった」
おばさんたちはいたずらを見つけられた子供のように肩をすくめ、
「じゃあ、またね」
練習に戻っていった。
「頑張ってください」
香苗の口から自然にその言葉が出た。
その後三十分ほど泳いで、プールから上がった。いつもはサウナに入るのだ
が、今日は生理中なのでやめておくことにする。そのままシャワーを浴び、服を
着替えて体育館を出ると来る時には降っていた雨が上がっていた。快晴とま
ではいかないが、少し薄陽も差している。香苗はいい気分で歩いていった。泳
いだ後の適度の疲労感で、身体が軽くなっている。お腹もすごく空いていた。
部屋に帰ったらモリモリ食べて、久しぶりにワインでも飲もう。
駅前のスーパーに寄って買い物をしていると、
「あら水木さん、こんなところで会うなんて珍しいじゃない」
野村さんに声をかけられた。マンションの奥さんの中でも、一番話好きの奥さ
んだ。
「夕飯のお買い物?」
野村さんは香苗の買物籠を覗き込むようにして言う。
「ええ、区民体育館で泳いできたらお腹が空いちゃって」
「あら、いいわねえ。これだから、独身貴族は羨ましいって言いたくなるのよ。私
たちには、そんなことしてる暇ないもの」
「親子で参加できる教室もあるみたいですよ」
「あ、そう? でも無理よ。このきかないのと一緒じゃ、疲れにいくようなものだか
ら」
言いながら、野村さんは掴んでいた男の子の手を振った。男の子は立ち止
まっていることに我慢できないらしく、身体をモゾモゾ動かしながら母親の手を
引っ張っている。香苗はチャンスとばかりに言った。
「それじゃあ、また」
「ええ……、あ、そうそう」
頷きかけた野村さんが言った。
「今度の日曜に親睦会の集まりがあるんだけど、水木さん聞いてるわよね」
「いいえ」
香苗はびっくりして首を振った。聞いているも何も、最初から親睦会に参加
するつもりなどないのだ。
「十時から、区民会館でやることになってるの。確か三階の会議室だったと思
うけど、くわしいことは井上さんに聞いてみて」
「でも……」
何か言わなければと思ったが、野村さんは子供に引っ張られるようにして行
ってしまった。
どうしよう。知らないうちに、親睦会に参加することになっているらしい。香苗
は買い物もそこそこに、急いでマンションへ帰った。参加する気がないことを、
井上さんにはっきり告げなければならない。井上さんは夕飯の支度をしている
ところだったようだ。
「すみません、お忙しい時間に」
頭を下げながら香苗が言うと、
「平気平気、それよりちょっと上がらない? 夕飯にはまだ早すぎるから」
井上さんは人のいい笑みを浮かべて言う。
「ありがとうございます、また今度」
一応礼を言ってから、香苗はすぐに切り出した。
「さっき野村さんに会って聞いたんですけど、私、親睦会に参加することになっ
てるんですか?」
「あ、そのことね。まだ返事は聞いてなかったんだけど、とりあえずメンバーに入
れておいたのよ」
やっぱりそうか。香苗はその場で断らなかったことを後悔した。最初にはっき
り言っておけば、こんなことにはならなかったはずだ。
「申し訳ないですけど、私、参加できないです」
「そうなの?」
井上さんが驚いたように言った。
「仕事でも決まったの?」
「そういうわけじゃないんですけど、私にもいろいろ都合があるんで……」
「そう……」
井上さんはがっかりしている。
「一緒に参加できると思って、楽しみにしてたのに」
「本当にすみませんでした」
香苗はもう一度頭を下げた。