窓辺の花3.


 

 

 フフフ、フフフ、フフフフフ……。どこかで子供の笑い声がしている。辺りは強

い光が立ち込めて、思うように目を開けられない。何とか薄目を開けて見回す

と、小さな女の子がブランコに乗っていた。おかっぱの髪をなびかせながら、い

かにも楽しそうに乗っている。フフフ、フフフ、フフフフフ……。

 女の子の声に誘われるようにして更に目を開けると、後方に大きな影法師

のようなものが二つ見えた。シルエットからすると、左側が男で右側が女。ブラ

ンコに乗っている女の子の父親と母親だろうか。

「パパ、もっと押してぇ」

 女の子が声を上げた。

「よし、しっかり掴まっているんだぞ」

 男が一歩、足を前に踏み出した。

 この声は……香苗は首をもたげて、更に目を開けようとした。強い光が邪魔

をして、なかなかそれ以上目を開けられない。光はますます強くなり、眩しいと

いうより痛いぐらいだ。それでも香苗は目を開けたかった。目を開けて、男の顔

をはっきり確かめたい。もう少し、もう少し、もう少しで男の顔が見れる……。

 目を開けると、そこは部屋の中だった。海の底を思わせるような濃いブルー

のカーテン、デパートを何軒も回ってやっと見つけたお気に入りのチェスト、三

十歳の誕生日に自分で自分にプレゼントしたドラクロアの版画、どれを見ても

自分の物に間違いなかった。カーテンの隙間から、梅雨時にしては珍しく西

陽が差し込んでいる。

 夢だったのか……香苗はふっと息を付き、手の甲で顎の下の汗を拭った。

夢というにはあまりにリアルで、画像が鮮明だった。ブランコに乗った女の子の

笑顔、風になびく髪、後方に立つ二つの影法師。そして、一歩足を踏み出した

時の男の声…… .。あれは、確かに西岡の声だった。

 それにしても、どうして今頃? 香苗は不思議な気がした。西岡は、香苗が

二十五歳の頃から四年間付き合っていた相手だ。八つ年上で、その頃から

妻子がいたので、世間でいう不倫の恋というやつだろうか。好んでそういう恋を

選んだわけではなかったが、会社で顔を会わせているうちにいつの間にかそう

いうことになってしまったのだ。若かったせいもあり、香苗はすぐに西岡に夢中

になった。一緒にいられるだけでいい、他には何も望まない……テレサ・テンの

唄みたいなことを本気で思っていた。

 けれども、それはみんな終わったことだ。西岡と別れて、すでに一年近くが過

ぎている。その頃の自分を思い出すことはあっても、西岡のことを思い出すこと

など滅多になかった。それに、たとえ思い出したとしても香苗の胸を苦しめるこ

とはない。なのにどうして、今頃西岡の夢を見たりしたのだろう。付き合ってい

た頃でさえ、一度も夢など見たことがなかったのに。

 不思議なことは他にもある。この頃、マンションの奥さんたちの態度が変なの

だ。井上さんはともかく、他の人たちはその辺で出会ってもすーっと行き過ぎて

しまうことが多かったのに、

「こんにちは」

 と笑顔で声をかけてくれるようになった。香苗も笑顔で声を返すと、

「お出かけ? 行ってらっしゃい」

 とか、

「毎日雨ばっかりで、嫌になっちゃうわね」

 などと言葉を添えてくれる。声をかけてくれるのだから変だというのもおかしい

のだが、こんなに急に態度を変えられるとやっぱりちょっと首を傾げたくなってし

まう。

 昨日は買い物から帰ったところを、奥さんたちの集団に囲まれてしまった。

「あら水木さん、お買物?」

 紙袋に目をやりながら、井上さんが声をかけてきた。

「ええ、ちょっと夏物を買いに」

 香苗はそのまま部屋へ行こうとしたのだが、

「いいわねえ、独身貴族は。私なんか、まだ去年の夏物を引っ張りだして着て

るわよ」

 別の奥さんが声をかけてきた。

「買い物っていったって、失業中ですから安い物ばっかりですよ」

「それでも羨ましいわよ。私はもう、何ヵ月もゆっくり買い物なんかしたことないも

の。いつも子供の手を引きながら、目についたものを適当に買ってくるって感じ

よ」

「大変ですね」

 何が大変なのかわかりもしないくせに、香苗はそう答えた。すると、

「そうよ、主婦は大変なのよ」

 また別の奥さんが声をかけてきた。

「水木さんは独身だから、何でも自由にできていいわよね。海外旅行なんかも、

いつでも行けるんでしょう?」

「まあ、年に一度ぐらいは」

「いいわねえ」

 今度は一斉に、奥さんたちが声を上げた。

 会話は十分近くも続いただろうか。ずっとそんな調子で、仲の良い友達同士

みたいな話し方だった。ちょっと前までは口を利いたこともなかったのに、どうし

てそんなに変わったのか香苗にはさっぱりわからない。不思議なのを通り越し

て、何だか不気味な気さえしてしまう。もっとも、奥さんたちの会話は罪がない

ので、ちょっとした退屈しのぎにはなった。

 

夕方、香苗は実家へ行くためにマンションを出た。毎週水曜と日曜は、実

家で夕食を食べることになっているのだ。しばらくは帰らないつもりで家を出た

のだが、

「頼むから、時々帰ってきてお袋の相手をしてやってくれよ」

 一ヵ月もしないうちに邦彦が懇願してきた。香苗がいなくなってから、母の神

経が邦彦一人に集中して息が詰まりそうだという。

「姉貴はさっさと家を出ちゃったから気楽でいいだろうけど、俺はまだ半年もこ

の家にいなきゃならないんだぜ。少しは俺の身にもなってくれよ」

 何を大袈裟なとは思ったが、邦彦の気持ちがわからないでもなかった。母は

今でも、娘や息子のことを何もかもわかっていると思い込んでいる。実際には、

小学生の三年生ぐらいから、母には本当のことなど話さなくなっていたという

のに……。その母と一対一で向き合うのは、かなりしんどいに違いない。父は、

とっくの昔に母の相手役を放棄してしまっていた。母が拒むかもしれないとも

思ったのだが、

「来たいなら来ればいいじゃない」

 意外とあっさり承知してくれた。

 実家へ行く途中、香苗は駅前の花屋に寄った。たまには手土産の一つもと

思い、花を持っていくことにしたのだ。花でも眺めて、母にも少し穏やかな気持

ちを持ってほしかった。この頃の母の様子は、以前にも増してひどい。口うるさ

いだけならまだしも、少し神経症の気があるのではないかと疑いたくなってしま

うほどだ。

 原因は、邦彦の妻の美代子だ。半年前に女の子を出産した美代子は、自

分の実家に入り浸っていてちっとも顔を見せないという。

「初孫だっていうのに、ろくに顔も見せてもらえないのよ」

 香苗は実家へ行く度に、くどくど文句を聞かされる。そんなに顔が見たいなら

自分の方から訪ねていけばいいと思うのだが、

「嫁の方から来るのが筋ってものでしょう。こっちから頭を下げてまで、孫の顔

を見せてもらおうとは思わないわよ」

 頑として行こうとしない。

 どうして母の方から訪ねていくのが頭を下げることになるのか、香苗には全

然理解できない。母にとって初孫なら、美代子の母にとっても初孫なのだ。双

方で可愛がり、育てていけばいいじゃないかと思う。

「香苗にはわからないのよ、お母さんがどれだけ悔しい思いをしているか」

 母は目を据えて、いまいまし気に呟く。香苗はもう、聞こえないふりをするしか

なかった。

 花屋の店先は季節の花で彩られていた。その中から、香苗はピンク色のあ

じさいを選んだ。これなら手入れも簡単だし、部屋の中にほのかな色合いを添

えてくれるだろう。女もある程度の年齢になったら、自分で自分をあやす方法

を身につけなければいけないと思う。母はその努力が足りないのだ。

「ただいま」

 あじさいの鉢植えをぶら下げて、香苗は玄関のドアを開けた。家の中は薄暗

く、何か生臭いような変な匂いが漂っている。母は居間のソファに横になり、T

Vを見ていた。夕暮れ時だというのに電気も付けず、だらしなく寝そべっている。

「電気ぐらい付けなさいよ」

 声をかけながら、香苗は電気のスイッチを入れた。ここにも、変な匂いが漂っ

ている。

「たまには窓を開けて空気を入れ換えないと、変な匂いがこもってるわよ」

 庭に面した窓を開け、空気を入れる。その窓ガラスも汚れているし、庭の雑

草も伸び放題だ。

「この頃、何をするのも億劫なのよ」

 大儀そうに身体を起こしながら母が言った。

「それに、どうせお母さん一人だもの。お父さんは毎晩遅いし、邦彦たちだって

月に一度来ればいい方。きれいにしたって仕方ないじゃない」

 またそれか、香苗は小さく溜息を付いた。母は何でも、悪い方悪い方と考え

たがる。

「何、年寄りじみたこと言ってるの。そりよりこれ、お土産。きれいでしょ?」

 できるだけ明るい声で言い、香苗はあじさいの鉢植えをテーブルに置いた。

少しは嬉しそうな顔をしてくれるかと思ったのだが、母はちらっと目をやっただけ

ですぐに顔を背けてしまった。

「あじさいは手入れも簡単だし、花が終わったら庭に下ろしてもいいんだって」

 香苗は何とか母の気持ちを引き立てようと、花屋で聞きかじったことを説明

した。

「それに色がピンクだから、部屋の中が明るくなっていいでしょう?」

「だったら香苗、持って帰りなさいよ。うちに置いたって、誰も見やしないから」

 母は面倒くさそうに言い、立ち上がって台所へ行ってしまった。香苗はがっか

りしながら、置き去りにされたあじさいを見つめた。どうして母はああなのだろ

う。せっかく一番きれいな物を選んで、ラッピングまでしてもらったというのに。そ

んなこともわからないほど、母の心はねじくれてしまったのだろうか。

 それでも香苗が来たことで、母も少しは気持ちに張りが出たようだ。冷蔵庫

を開けたり閉めたりしながら、夕食の支度に忙しく動いている。香苗もテーブル

を拭いたり、茶碗や箸を並べたりして手伝った。支度が整うと、ビールを出して

互いのグラスに注ぎあった。

「ムシムシするからビールが美味しいわ」

 母は喉を鳴らしてビールを飲み干した。香苗はほっとしたような気持ちで、自

分もグラスを口に運んだ。この様子なら、今日のところは大丈夫そうだ。

「そういえば」

 夕食も終わりかけた頃、思い出したように母が言った。

「高橋さんのお嬢さん、結婚決まったんですってよ。この前電話で言ってたわ」

 高橋さんというのは母の古くからの友達で、確か香苗より二つ三つ年下の

女の子がいたはずだ。

「相手は東大出の一流商社マンですって。大したものよねえ。高橋さん、嬉し

くて仕方がないって声出してたわ」

 母の口調がだんだん意地悪くなってきた。

「それで高橋さん、何て言ったと思う? “香苗さんはまだ結婚決まらないの?”

ですって。よくそんな馬鹿にしたようなことが言えるわよね。お母さん悔しくて、そ

の日は朝まで眠れなかったわよ」

「別にいいじゃない。それぐらいのこと、気にする方がおかしいわよ」

 香苗は素っ気なく言った。まともに相手になったりしたら、こっちまで不愉快

になってしまう。

「あんたはそれでもいいでしょうよ、好き勝手なことしてるんだから。だけどお母さ

んはそうはいかないのよ」

 母の声が急に甲高くなった。

「これでもお母さん、あんたの気持ちを考えて今まで我慢してきたのよ。お見合

いの話があっても、うちの娘は結婚相手は自分で探すって言ってますからって、

全部断ってきたの。だけど、あんたはいつまでたっても結婚しないじゃない。人

に聞かれる度に、どれだけ肩身の狭い思いをしてきたか。おまけに会社までや

めちゃって、みっともなくて人に会わせる顔がないわ。お母さんの知り合いで、

そんなことしてる娘はあんただけよ」

「いい加減にしてよ」

 香苗はついに堪えきれなくなった。

「自分がどんなにひどいことを言ってるか、わかってるの? 私は自分で働いて、

自分で生活しているの。誰に迷惑かけてるわけじゃなし、つべこべ言われる理

由なんてないわよ」

「だって会社やめたじゃない」

 母が言った。香苗は顔をしかめて言い返した。

「だからそれは、私なりの考えがあってしたことなの。これからのことだって、ちゃ

んと考えてる。わかりもしないくせに、余計な口出ししないでよ」

 この八年間、香苗がどんな思いで会社勤めをしてきたか、母にわかるわけが

ない。

 輝かしい未来が待っているように思えた新入社員の頃、秘書といえば聞こ

えはいいがただの便利屋にすぎないと気付いた二年目の頃、神様が与えてく

れた運命のように思えた西岡との出会いは三年目だった。四年目は、毎日

会社に行くのが楽しみだった。

 けれども、五年目に入った頃から再び行き詰まりを感じはじめ、六年目から

はただ惰性で会社勤めを続けていた。西岡と別れる決心をしたのは七年目だ

った。希望がないとわかっていても、その希望が捨てきれずにしがみついていた

恋を終わらせる気になったのは、西岡に二人目の子供が生まれたと聞いた時

だった。同僚たちから祝福される度に、西岡はくすぐったいような、何ともいえ

ない幸せそうな笑みを浮かべていた。それは、香苗と二人でいる時には見せた

ことのない笑顔だった。それから半年後、香苗は上司に退職願を出した。

「あんたたちはみんな、そうやってお母さんを除け者にするのね」

 母が低い声で言った。

「邦彦は美代子さんの言いなりでお母さんの気持ちなんてちっともわかってくれ

ないし、お父さんはお父さんでお母さんの話なんて耳を貸してもくれない。だっ

たらお母さんはどうしたらいいの? どう仕様もないじゃないの……」

 言いながら、母は静かに泣いていた。顔を俯け、声をたてることもなく、ただ

涙が頬を伝うままに……。香苗は黙ったまま、母の顔を見つめていた。香苗に

は、この母を救う力はなかった。

 

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