ハローワークへ行くために、香苗は久しぶりに朝から出かけた。来月から失
業給付の資格が得られるので、面談を受けなければならないのだ。満員電車
に乗るのも久しぶりだ。普段は忘れかけている、“失業中”という自分の立場
を思い出すのはこんな時だ。会社をやめて三ヶ月とたっていないのに、もう満
員電車にうまく乗る方法も人とぶつからずに駅の構内を素早く歩く方法も忘
れてしまっている。もみくちゃにされたりウロウロしたりしながら、どうにか決めら
れた時間に間に合った。
求職者のフロアは、今日も混雑している。自分が退職してみて、世の中には
どれだけ職を探している人が多いかということを香苗は初めて知った。それま
では、失業率が四%を越えたとか、長引く不況で新卒の就職率が下がる一
方だというニュースを聞かされてもあまりピンとこなかったのだが、混雑する職
安を見てようやく自分の立場を思い知らされた。しばらくは、今まで溜めた貯
金や失業手当てで暮らしていけるだろうが、その先の保証は何もない。
「水木さん」
名前を呼ばれ、香苗は面談用の席に着いた。担当者は、松本さんという四
十代半ばぐらいのおじさんだ。
「どうですか、まだ仕事は見つかりませんか」
面談をする度に必ずこう聞かれる。
「はい。探してはいるんですけど、なかなか見つからなくて」
答えもいつも決まっている。
「来月までに見つかる見込みはないですか」
「今のところあまり期待できません」
「そうですか」
松本さんは頷いて、手元の書類に文字を記入してから言った。
「それでは、来月から失業給付が受けられます。指定された口座に振り込ま
れますから、必ず確認してください。ただし、その前に仕事が決まったらちゃん
と連絡してくださいよ」
「わかりました」
香苗はほっとして大きく頷いた。これで面談終了だ。
「ところで、水木さんは独身だったよね」
書類を片付けながら松本さんが言った。いつも面談が終わると、くだけた感
じで話しかけてくる。
「そうですけど」
「どうして結婚しないの? 結婚すれば、仕事なんて探さなくていいじゃない」
やれやれまたか、香苗は心の中で嘆息した。最近はどこへ行ってもこの話題
ばかりだ。
「私もそう思うんですけど、なかなか相手が見つからないものですから」
「そんなことはないでしょう。水木さんはなかなか美人だし性格も良さそうだから、
結婚してくれっていう男の一人や二人いないはずないと思うよ。ちょっと理想が
高すぎるんじゃない?」
松本さんは結構しつこい。
「そんなことないですよ。私はあんまり、好みってない方ですから」
「じゃあ、うちの職員なんかどう? みんな彼女がいなくて、淋しい奴ばっかりだ
から」
そう言って、松本さんは近くの机の島を指さした。仕事をしていた二、三人
の男性職員が、手を止めてこちらを向いた。話を聞いていたらしく、みんなニヤ
ニヤ笑っている。
「そうですね、いい人がいたら紹介してください」
明らかに社交辞令と取れるように言い、香苗は立ち上がった。これ以上、こ
こにいる義務はない。
「また来月ね」
松本さんの言葉に、香苗は無言で頭を下げた。
ハローワークを出ると、外では雨が降っていた。梅雨時特有のしょぼしょぼし
た嫌な雨だ。香苗は小さく舌打ちをして、足早に歩きだした。あの手のからかい
には慣れっこになっていたが、ハローワークの職員にまで言われるとは思わな
かった。こちらが強く出られないのを知っていて、からかうのを楽しんでいる。
「私にも選ぶ権利がありますから」
それが言えたら、どんなにすっきりするだろう。
鬱々した気持ちで歩いていると、
「あの、よかったらどうぞ」
横合いから傘を差しかけられた。びっくりして顔を向けると、二十五、六の女
の子が柔和な笑みを浮かべて立っている。香苗も思わず笑顔になって声を返
した。
「すみません。今日に限って、傘を持ってこなかったんで」
「予報では、降らないって言ってましたもんね」
何となく、話をしながら肩を並べて歩いていった。
「今日はお仕事ですか?」
女の子が訊ねた。
「ええ、まあ……」
曖昧に答えると、
「お仕事は楽しいですか?」
と聞き返す。
「楽しいってほどでもないけど、生活するためには働かなきゃいけませんから」
「そうですよね」
女の子は納得したように頷いて、
「実は私、××の者なんです。向こうから歩いてくるお姉さんを見て、何か悩み
があるんじゃないかと思って声をかけてみたんです」
と言う。××とは、随分前に女優や元スポーツ選手が教祖の決めた相手と
結婚して、話題になった新興宗教だ。憂鬱そうに歩いていたので、目を付けら
れたのかもしれない。
「別に悩みなんかありませんから」
つっけんどんに言い、香苗は足を早めた。いくら失業中でも、そんなものに縋
るほど落ちぶれてはいない。
「私、占いの勉強もしてるんです。よかったら、お茶でも飲みながらお話しませ
んか?」
女の子は歩調を合わせ、尚も食い下がってくる。
「結構です」
香苗はきつい声で言い、更に足を早めた。……と、
「幸せになりたくないんですか?」
女の子が突然後ろで叫んだ。香苗は思わず振り返りそうになったが、何とか
思い止まってそのまま歩きつづけた。ここで立ち止まったら、相手の思うつぼだ
ということは分かっていた。巧みに話を持ちかけて、勧誘してくるに決まってい
る。幸せになるためには、過去の罪を浄化しなければなりません……とか何と
か言っちゃって。そんなものに目を付けられるほど、弱々しく見えたということな
のだろうか。今まで他人には、弱みを見せたことなどなかったはずなのに……。
駅に着くと、香苗はまっすぐ部屋に帰った。