窓辺の花1.


 昼下がり、とろんとした静けさの中でうたた寝をしていると、窓の外から耳障

りな声が聞こえてきた。

「ねえねえ、木下さんの話って聞いた?」

「聞いてない、どうかしたの?」

「それがこの前の日曜にねえ……」

 声はだんだん勢いを増し、止みそうな気配はない。

 また始まった、と香苗は思った。毎日この時間になると、決まって話し声が

聞こえてくる。マンションの奥さんたちがエントランスに集まって、井戸端会議を

始めるのだ。いずれも二十代後半から三十代前半の主婦たちで、子供が一

人か二人。似たり寄ったりの家庭環境で、大して珍しい話もなさそうなのに二

時間ぐらいは平気で喋りつづけている。香苗は主婦ではないし、井戸端会議

というもの自体興味がないので気に止めたこともなかったのだが、毎日聞かさ

れているうちに耳にこびりついてしまった。

 このマンションは四階建てで、ワンフロアに五部屋ずつ、二十世帯が住んで

いる。間取りは道路寄りの角側だけが1K、その他は全て2DKという造りにな

っていて、住民たちも1Kは単身者、2DKは小家族ときれいに別れている。生

活サイクルが違うせいか、両者の間に付き合いはなかった。たまに階段などで

出会っても、軽く頭を下げ合う程度だ。香苗はその1Kの二階に住んでいる。

「……なんだって」

「え、本当? 信じられなーい」

「でしょう?」

 奥さんたちの話し声は続いている。香苗は仕方なく目を開けて、ソファベッド

の上に起き上がった。どうでもいいけれど、もう少し小さい声で話せないものだ

ろうか。せっかくいい気持ちで寝ていたのに、すっかり目が覚めてしまった。奥さ

んたちには当たり前のことかもしれないが、香苗にとっては八年ぶりに経験す

る貴重な時間なのだ。

 やっぱり、不動産屋の薦めるワンルームマンションにしておけばよかった……

単身者向けのワンルームマンションは、無機的すぎて住む気になれない。自分

でそう言って、このマンションを探してもらったはずなのに、香苗はこの頃よくそ

う思ってしまう。蜂の巣みたいに思えたワンルームマンションも、慣れてしまえば

かえって気楽でよかったかもしれない。

「ワーン」

 今度は子供の泣き声が聞こえてきた。

「リナちゃんがぶったあー」

「何やってるの、リナ。コウタ君に謝りなさい」

「だって、コウタ君が先にぶったんだもーん」

「後でも先でも関係ないの。コウタ君、泣いてるじゃないの」

「だってコウタ君が……」

 子供の泣き声が二重奏になった。

「男の子なんだから、コウタもそれぐらいで泣くんじゃないわよ」

 香苗は眉をしかめて立ち上がり、道路に面した出窓を閉めにいった。また今

日も聞かされるのだ。奥さんたちの話し声や笑い声、子供たちの泣き声や叫

び声。それらのやりとりが、どんよりと曇った梅雨空の下に妙に大きく響きわた

る。この世の中に生きているのは、自分たちだけだとでもいうように。

「やだあー」

 奥さんたちの新たな笑い声が上がった。

「旦那さんが帰ってきたら、言いつけちゃうわよおー」

 ああ、うるさい。香苗は両手で耳を塞ぎ、足元のスリッパを蹴飛ばした。

 

 香苗が電車で二駅ほど離れた実家を出て、このマンションに入居したのは、

二年前の春、二十八歳の時だった。それまでにも家を出ることを考えなかった

わけではなかったが、何もかも自分でしなければならない面倒や、そのことによ

って起こるであろう母とのいざこざを思うと何となく踏ん切りが付かなかった。そ

れに、家を出るのは結婚する時というような思いも、心のどこかにあったのかも

しれない。ところが、二才年下の弟の邦彦が、その年の秋に結婚することにな

った。邦彦の方はもう少し独身生活を楽しみたいようだったが、相手が大学

時代の同級生でこれ以上待てないと言われたらしい。

「この年でもう妻帯者だよ」

 邦彦は皮肉っぽく笑っていたが、香苗は特に同情する気も起きなかった。口

ではまだ早いと言いながらも、弟の顔には長年の恋人と結婚する喜びが滲み

出ていたからだ。

 それが原因というわけではなかったが、家を出るきっかけになったことは事実

だ。考えてみれば、親に身の回りの世話をしてもらうような年ではなかった。周

りの友達は半分以上が結婚していたし、そのうちの何人かはすでに子供が生

まれていた。香苗が仕事という体のいい理由を付けて何もかも母親に任せき

りにしているうちに、彼女たちは妻になり母になっていたのだ。このままではい

けない…… 香苗の中の何かがそう思わせた。

 問題は、それをどう母に納得させるかだった。

「何も香苗まで出ていくことないじゃない、邦彦たちがここに同居するわけじゃな

いんだから。そんなことすると、気にしてるみたいでかえって変に思われるわよ」

 思った通り、母はとんちんかんな引き止め方をした。

「家にいれば家賃だっていらないし、食事の仕度や洗濯だってみんなお母さん

がやってあげるのに」

「まあ、いいじゃないか。香苗ももう大人なんだし、好きなようにさせてやれば」

 父が助け船を出してくれたのだが、それぐらいで引っ込むような母ではなかっ

た。

「私は別に、好きにさせないとは言ってませんよ。香苗のことを思うからこそ言

ってるんじゃないですか。ちゃんとした家があるのに、何もわざわざ一人暮らしす

ることないでしょう」

 これだから嫌になる…… 香苗はうんざりしながら母の言葉を聞いていた。あ

なたのため、あなたのため、あなたのため……。香苗は今まで、数えきれない

ぐらいこの言葉を聞かされてきた。まるで、新興宗教の念仏か何かのように。

「お母さんの言いたいことはわかってるわよ。だけど、私はもう二十八なのよ。

秋には二十九になるの。親に心配してもらうような年じゃないのよ」

 香苗は辛抱強く言った。母が納得しようとしまいと、家を出ていくことには変

わりはなかったが、できることなら穏やかに話を進めたかった。

「何言ってるの、いくつになっても娘は娘でしょう。親が子供の心配するの、当

たり前じゃない」

 母は声を甲高くして言った。

「誰のおかげで大きくなったと思ってるの。心配してくれる親がいて、ありがたい

と思いなさい」

「だったら勝手に出ていくわよ」

 最後は言い争いのようになり、香苗はそのまま家を出てしまった。後味のい

いやり方ではなかったが、あの時家を出たのは正解だったと思っている。邦彦

が結婚した後では、母もあんな言い方はしなかっただろう。泣きつかれでもした

らそれを振り払えたかどうか、香苗にはちょっと自信がなかった。

 二十八歳にして初めて経験する一人暮らしは、なかなか快適だった。八畳

の洋間に二畳のキッチン。狭いながらも、そこは香苗だけの空間だった。どん

なに疲れている時も気持ちが落ち込んでいる時も、自分の部屋に戻ってくると

ほっと息を付くことができた。ここにいる限り、自分を装う必要はなかった。好き

な時に好きなだけ笑い、怒ることができた。そして、時によっては泣くことも……。

二ヵ月ほど前、八年間勤めた会社を退職するまでは。

 

 香苗はソファベッドに腰掛けて、ラジオのFM放送を聞いていた。窓は全て閉

め切って、クーラーの除湿をかけている。こうすれば、耳障りな話し声や笑い声

も部屋の中には入ってこない。静かな音楽に耳を傾けながら、香苗は出窓に

目をやった。出窓には、会社をやめてから買ったベコニアとゼラニュームの鉢

植えが置かれている。送別会の時にもらった花束がきっかけで、置いてみる気

になったのだ。勤めていた頃は、店先に並んでいる花々をきれいだと思うことは

あっても、自分で買おうとまでは思わなかった。今は、もっと早く買っておけば

良かったと思っている。花を眺めたり手入れをしたりしていると、自分が少し優

しくなれるような気がした。

 ピンポーン……

 玄関のチャイムが鳴った。香苗はソファベッドに腰掛けたまま、

音楽に聞き入っていた。この時間だけは、誰にも邪魔をされたくない。それに今

頃訪ねてくるのは、何かのセールスか宗教の勧誘ぐらいのものだろう。

 ピンポーン……

 再びチャイムが鳴った。香苗は仕方なく立ち上がり、忍び足で玄関へ歩いて

いった。一応相手を確かめようとドアスコープを覗くと、隣の井上さんだった。

「はい、今開けます」

 香苗は急いで髪をなでつけて、玄関のドアを開けた。マンションの奥さんたち

とは付き合いのない香苗も、井上さんとだけは何度か立ち話をしたことがある。

「ごめんなさい、忙しかった?」

 挨拶を交わす間もなく井上さんが言った。その横では、二歳になるという井

上さんの子供が、物珍しそうにこちらを見上げている。そのまま目を逸らしては

いけないような気がして、香苗はニコッと笑いかけてから返事をした。

「いえ、ちょっとボーッとしてたんで……」

「じゃ、丁度良かったわ」

 井上さんはニコニコしながら、手に持っていた白い紙を広げて見せた。

「七月の最終日曜に、町内会の親睦会が開かれるの。毎年恒例になってる

から、水木さんも知ってるわよね」

「いいえ」

 香苗が首を振ると、

「知らない? 模擬店やバザーなんかも開かれて、結構盛大にやってるんだけ

ど」

 井上さんは意外そうに言う。そう言われても、知らないものは仕方がない。香

苗はもう一度首を振った。

「そう……」

 井上さんはちょっとがっかりしたような顔になったが、すぐに気を取り直して話

を続けた。

「とにかく、その親睦会が開かれるのよ。役員さんたちが中心になって、準備を

手伝ってくれる人を募集してやってるの。だけどこのマンションからは、今まで

誰も参加したことがなかったのよ。それで、せっかくだから今年はみんなで参加

しようってことになったわけ」

「そうなんですか……」

 相槌を打ちながら、香苗は井上さんの持っている紙に目をやった。確かに親

睦会の日時や参加方法がイラスト入りで書かれている。

「それでね」

 井上さんが香苗の顔を見つめて言った。

「よかったら、水木さんも参加しないかと思って声をかけてみたの。強制的じゃ

ないけど、水木さんも仕事やめてずっと家にいるみたいだから、こういうのに参

加するのもいいんじゃないかと思って」

「……はあ」

 香苗はちょっと驚いた。まさか、自分が誘われるとは思わなかった。

「どう、参加してみる?」

「そうですねえ……」

 言いながら、香苗は足元に目を落とした。そんなものに参加する気はなかっ

たが、すぐに断るのも悪いような気がする。返事に困っていると、

「じゃあ、考えておいて。そのうちまた、声かけてみるから」

 井上さんが言った。

「とりあえず、これだけ渡しておくわね」

 目の前に紙を差し出し出され、香苗は仕方なく受け取った。

「今度うちにも遊びにきてよ。お茶でも飲みながらゆっくり話しましょ」

 笑顔で言いながら、井上さんは子供と一緒に帰っていった。香苗も笑顔を

作ってそれを見送った。玄関のドアを閉めた後、香苗の口から小さな溜息が

漏れた。

 

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