窓辺の花7
豊田女史から電話があったのは、七月に入ってすぐだった。会社の五年先
輩で、女史というあだ名で呼ばれていた。揶揄するような意味ではなく、純粋
に尊敬の念が込められている。秘書室の女子社員は、多かれ少なかれみん
な豊田女史に憧れていた。香苗も豊田女史ほど仕事ができれば、会社をや
めなかったかもしれない。ハーブティーを飲むよう薦めてくれたのも、この豊田
女史だった。
「久しぶり、元気だった?」
相変わらず、豊田女史の声は明るい。
「ええ、まあ……」
「何か、あんまり元気なさそうね」
「そんなことないですよ」
香苗はちょっと声のトーンを上げた。
「ならいいけど……実はね」
豊田女史はそれ以上追求せず、すぐに本題に入った。
「私、六月一杯で会社をやめたのよ」
「え、どうしてですか?」
香苗は驚いて声を上げた。香苗が入社した頃から、豊田女史の有能ぶり
は有名だった。課長や部長も一目置いていて、事あるごとに意見を求めてい
た。その豊田女史が会社をやめるなんて、香苗にはちょっと想像できない。
「結婚でもするんですか?」
言ってしまってから、香苗は自分でも馬鹿な質問をしたと思った。豊田女史
ほどの人が、結婚ごときで会社をやめるわけがない。
「そうじゃないけど、いろいろ考えることがあってね」
この夏から、伊豆高原でペンションをやっている友人の手伝いをすることにし
たのだという。豊田女史もいくらか出資して、ゆくゆくは共同経営者として本
格的にやるつもりらしい。香苗はまた驚かされた。豊田女史が秘書以外の仕
事をするなんて、それこそ全然想像できない。
「東京を発つ前に、一度会いたいと思って電話したの。雨は降ってるけど、よ
かったら出てこない?」
香苗は一瞬ためらったが、すぐにOKの返事をした。考えてみると、もう一ヵ
月以上人と会うための外出というのをしていない。外の空気を吸えば、少しは
気持ちも軽くなるかもしれないと思った。
時間がずれていたせいか、約束のイタリア料理店にはほとんど客がいなかっ
た。豊田女史は、椅子にもたれて窓の外を眺めていた。髪を短く切り、化粧っ
気もほとんどなく、綿シャツにパンツというラフなスタイルだ。スーツ姿を見慣れ
ている香苗の目には、かなり新鮮に映った。店が混雑していたら、それが豊田
女史とは気付かなかったかもしれない。髪形や服装だけでなく、何かふんわり
したものが豊田女史の身体を包んでいた。
「すみません、お待たせしちゃって」
香苗が声をかけると、
「こっちこそ、急に呼び出しちゃってごめんなさい」
豊田女史がこちらを向いて穏やかに言った。何だか話し方まで、変わってし
まったみたいだ。
二千五百円のランチコースを注文し、ウエイターが立ち去ると、香苗は自分
のことを聞かれる前に豊田女史に話しかけた。
「それにしても豊田さん、よく会社やめる決心がつきましたね。豊田さんて、何
があっても会社だけはやめない人だと思ってました」
「そう? 私自身は、そんなにあの仕事が好きだったわけでもないのよ」
「そうですか? 私には天職に見えましたけど」
「他人ってなかなか自分が思っているような人間には、見てくれないものなのよ」
そう言うと、豊田女史はフフッと息を抜くようにして笑った。その笑い方も、香
苗の知っているものとは違う。以前は笑っている時も、どこか神経を張り詰め
ているようなところがあった。今の豊田女史は、もう女史と呼ぶのがかえって失
礼になるような感じだ。
食前酒と前菜が運ばれてきて、それを食べながら豊田女史がペンションを
手伝うことになったいきさつを話してくれた。
「会社をやめるのは、三十を過ぎた頃からずっと考えていたことなのよ。秘書と
いう仕事は嫌いじゃなかったけど、今一つしっくりこない部分も感じてたのね。
でも、じゃあ他に何がやりたいのかって聞かれると、これだってはっきり答えられ
るものもなかったの。それで、ずるずる会社にいつづけちゃったんだけど……」
それが去年、大学時代の後輩から一緒にペンションをやらないかと誘われた。
もともと実家が伊東で旅館をやっており、次男坊なので新規事業として数年前
からペンションを始めたのだという。妹さんと二人でやっていたのだが、その妹
さんが結婚することになったので豊田女史に声をかけたということだ。
「伊豆高原はペンションが多いところなんだけど、そこは周りに何もなくて、ただ
林や野原が広がってるだけなのね。山の上だから空気はきれいだし、窓から
海は見下ろせるし、もうこれしかないって思ってすぐに決めちゃった」
豊田女史は目を輝かせて熱っぽく語る。まるで、この不況の時代に志望の
会社から内定をもらった大学生みたいだ。おそらく豊田女史は、いい選択をし
たのだろう。それを祝福する気持ちはあるのだが、香苗はどこか居心地の悪さ
を感じてもいた。香苗には、そんなふうに語れるものは何もない。
デザートのアイスクリームを食べおわると、コーヒーが運ばれてきた。香苗は
黙ってそれを飲んだ。早く飲んで、食事を終わらせてしまいたかった。豊田女
史はコーヒーカップに指をかけ、じっと手元を見つめている。そろそろ出ましょう
か……そう言おうかどうか迷っていると、
「私ね」
豊田女史が言った。
「本当は二十五歳ぐらいで結婚したかったの。大学時代から付き合ってた人
で、ものすごく好きだった人がいたのね。その人も私のこと、すごく大事にしてく
れて。私は早く結婚したかったから、入社試験の面接で“三年ぐらい勤めたら
結婚退職したいです”って言ったぐらいなの。後で何て馬鹿なこと言ったんだろ
うって恥ずかしくなったけど、ちゃんと試験にも合格して、入社してから“あんな
ことを言う学生は初めてだったからかえって新鮮だった”って言われちゃった。
だけど、本当にそれぐらい好きだったのよ」
香苗には、豊田女史の気持ちがよくわかった。それは、香苗が西岡に抱い
ていた気持ちと同じだった。この人と一緒にいられるなら、他には何も欲しくない
……そんな熱い思いを抱いていた時期が、香苗にも確かにあったのだ。決して
未練なんかではない。未練が残るぐらいなら、別れたりはしなかっただろう。香
苗を苦しめるもの……それは、もう二度とあんなふうに人を愛することはできな
いかもしれないという思いだ。
「どうして結婚しなかったんですか?」
香苗が訊ねると、
「それがね」
豊田女史はすっと目を落として言った。
「私が会社に入って二年ぐらいたった頃、その人、急性白血病で亡くなっちゃ
ったのよ」
香苗は豊田女史の顔を見つめた。そんなことは、今まで誰からも聞いたこと
がなかった。
最初はちょっと体調が悪いからと軽い気持ちで病院へ行ったのだが、白血
病と診断されてすぐに入院させられた。白血病といっても、今は骨髄移植をす
れば助かる可能性は高い。ただ、なかなか骨髄のタイプが一致する人が見つ
からないという。幸い豊田女史の恋人は、母親とタイプが一致した。患者と提
供者が体調を整え、入院してから半年後、骨髄移植が行われた。手術は成
功し、経過も良好だった。
「退院したら、すぐに結婚しようね」
豊田女史と恋人は、無菌室のビニールシートをはさんでそんなことを言い合
ったという。
ところが、それから二週間ほど過ぎた頃、突然容態が悪くなった。豊田女史
はつきっきりで看病したのだが、その三日後に亡くなった。弱音を吐かない人
だったのでわからなかったが、相当体力が衰えていたらしい。身体が骨髄移
植に耐えられなかったのだという。
「私、何が何だかわからなくて、一週間ずっと部屋にこもって泣いてたの。だっ
て死んじゃったんだもの。死んじゃったってことは、もうこの世の中にいないって
ことでしょう。どうせなら、他の女に取られた方がまだましよ。どんなに傷ついた
って、憎む相手がいるんだもの」
香苗は黙って聞いていた。言うべき言葉が見つからなかった。いや、言って
はいけないような気がした。
「だけど人間て不思議よね」
豊田女史が言った。
「一ヵ月ぐらいたった頃から、だんだん胸の痛みが薄れてきたの。私、びっくりし
ちゃってね。自分はこんなに薄情な女だったのかって。こんなことじゃいけない、
私はずっと彼のことを思いつづけていくんだって自分に言い聞かせても、痛み
はどんどん薄れていって友達と大声で笑っちゃったりするのよ。私はそれがす
ごく嫌だったんだけど、周りの人は“元気になってよかった”って言うわけ。どうし
て? 私はずっと悲しんでいたいのよって言いたかったけど、言えなかった。この
気持ちは、誰にもわからないんだなって思ったわ」
香苗はつと目を上げた。最後の言葉が耳に残った。それは、香苗が今感じ
ている気持ちと似ていた。
「それから私、本気で仕事に打ち込む気になったのよ。たまたま課長や部長
が私のことを評価してくれたから、どんどんのめり込んでいって女史なんて呼ば
れるようになっちゃって……。もちろん自分で望んでそうなったんだけど、でも違
う、これは本当の私じゃないって、いつも心のどこかで思ってた」
香苗は大きく頷いた。
「でも、一度ついてしまったイメージって、なかなか変えられないものなのよね。
だからせっかく好きな人ができても、すぐにそのギャップに突き当たっちゃうのよ。
ああ、この人もわかってくれないんだなって思って、すーっと気持ちが冷めちゃ
うの。そんなことしてるうちに、こんな年になっちゃった」
話しおえると、豊田女史は水の入ったグラスを持ち上げ、ぐいと一気に飲み
干した。その表情が、何故かとても明るかった。
「それがどうして、会社をやめる気になったんですか?」
香苗は身を乗り出すようにして訊ねた。
「うん……それも話すと長くなっちゃうんだけどね」
豊田女史がフフッと笑いながら言った。
「簡単に言うと、そんなに突っ張るなよって言ってくれた人がいたわけ。それで、
ああそうか、私って突っ張ってたんだなって思ったの。ほら、人間て他人が自
分に望むイメージに、自分でも気付かないうちに合わせちゃうようなところがあ
るでしょう。嫌だ嫌だと思いながらも、私もいつの間にかそうしてたのよね。で、
だったらもう突っ張るのをやめてもいいんじゃないかって思ったの。それを言って
くれたのが、ペンションのオーナー。よくある話でしょ?」
「そんなことないですよ」
香苗は力を込めて言った。
「よくある話かもしれないけど、それってすごく大事なことだと思います」
「そう?」
豊田女史は上目遣いにこちらを見、またフフッと照れくさそうに笑った。香苗
はその笑顔を可愛いと思った。豊田女史をそんなふうに思ったのは、もちろん
初めてだった。
会計は折半にして、それぞれが支払った。外に出ると、いつの間に止んだの
か雨は降っていなかった。雨が上がった後の透き通るような匂いが、辺りに立
ち込めている。
「豊田さん、ペンションのオーナーと結婚するんですか?」
歩きながら、香苗は訊ねた。
「まさか。彼とは男とか女とか、そういう付き合いじゃないもの。多分、一生共
同経営者のままだと思うわよ」
豊田女史が笑って言った。でも、そうなるといいですね。香苗は心の中で呟
いた。本当にそうなるといいですね……。
駅の前で二人は別れた。
「じゃ、落ち着いたらまた連絡するわね」
豊田女史は手を振りながら歩いていった。香苗も手を振り返し、豊田女史
が背中を向けてもその後ろ姿を見つめ続けた。本当に本当に、そうなるといい
ですね……。
梅雨も終わりに近付いていた。香苗は出窓に置かれた鉢植えの花に水をや
っていた。ベコニアにゼラニュームにピンクのあじさい。どれも元気に育ち、きれ
いな花を咲かせている。邦彦の言う通り、これは要注意なのかもしれない。何
故なら、鉢植えの花は三十を過ぎた独身女に似ているからだ。切り花ほど鮮
やかではないし、観葉植物ほど丈夫で長持ちするというわけでもない。そのくせ
結構手間がかかり、ちょっとぞんざいに扱うとすぐに機嫌を悪くする。けれども、
それならそれでいいじゃないかと香苗は思うことにした。鮮やかでなくても丈夫
でなくても、一生懸命咲いていることに変わりはないのだから。自分に似た鉢
植えの花を、香苗は目一杯可愛がってやりたいと思う。
マンションの奥さんたちは、相変わらず賑やかだ。毎日エントランスに集まっ
て、井戸端会議をやっている。でもそれも、香苗は前ほど気にならなくなった。
楽しそうに笑っていても、みんなそれぞれ何かを抱えて生きているのだ。今度
会ったら、香苗の方から声をかけてみようと思う。無視されたって気にしない。
こちらがそう思っている限り、いつか伝わることもあるだろう。
豊田女史から、ペンションの案内状を兼ねた写真付きハガキが届いた。緑
の芝生の中に、スモークブルーのペンションが建っている。その前で、豊田女
史が大きな口を開けて笑っている。その顔は、会社にいた頃より五、六才若
返って見えた。ハガキの余白には、“梅雨が開けたら遊びにきてね”と書いてあ
った。
一つ不思議なことがある。どうして豊田女史は、あんな辛い話を聞かせてく
れたのだろう。噂も耳にしたことがなかったから、おそらく同僚たちは誰も知らな
いに違いない。ひょっとしたら豊田女史は、香苗と西岡の関係を知っていたの
かもしれない。だから自分の過去を話して、香苗を元気付けようとしてくれたの
ではないだろうか。まだまだ遅くないわよと……。西岡とのことは誰にも打ち明
けたことはなかったが、鋭い豊田女史のことだから何もかもわかっていたのかも
しれない。
鉢植えの水やりが終わると、香苗は出かける準備をした。職業訓練所で開
かれる説明会に出席するためだ。女性専用の訓練所で、カリキュラムも全て
女性向けに組まれている。その中で少しでも興味の持てるものがあれば、とに
かく始めてみるつもりだ。それから先のことは、またゆっくり考えることにしよう。
バッグを持ってパンプスを履くと、勤めていた頃のような引き締まった顔付き
になった。背筋も自然とピンとなり、気持ちまでその気になってきた。香苗は玄
関の鏡に向かって、ニコッと笑いかけてから部屋を出た。階段を下りていくと、
奥さんたちの話し声が聞こえてきた。
「ねえねえ、あの話聞いた?」
「何よ、何のこと?」
「それがねえ……」
香苗はそのままの足取りで、真っ直ぐ前へ歩いていった。