アリスの家3.


 

 二学期の授業が始まった。まだ暑さは残っていたけれど、朝夕に肌に感じる

空気は夏の盛りの頃とは明らかに違っていた。席替えが行われ、新しい委員も決

まった。夏休み気分の抜けなかった生徒たちも、少しずつ日常的な学校生活へと

戻って行った。

 私もその一人だったが、ひとつだけ気になることがあった。詩織が学校へ来ない

のだ。始業式の日、

「あっちへ行け」

 と癇癪を起こして帰ってしまったきり、詩織は学校へ来ていなかった。病気にでも

なったのか、家の都合で来れないのか、それとも何か他の理由があるのか・・・・・。

清水先生は何も言わないし、同級生たちも聞こうとしない。始業式、の日で懲りた

のか、誰も詩織のことを話題にしようとしなかった。

 私は何度か詩織の家の前まで行ってみた。あの日の怖さを忘れたわけではな

かったので、自転車に乗ったまま前を通り過ぎるだけだったが、特に変わった様子

はないようだった。ただ、とんがり帽子の屋根の窓は、ずっと閉まったままだった。

私はそのことが、詩織が学校へ来ないことと関係があるような気がしてならなかっ

た。もしかしたら、詩織はあの窓の中に閉じ込められているのかもしれない・・・・・・

そんなことまで考えた。

 二学期が始まって十日程過ぎた頃、思いがけないことが起こった。清水先生か

ら、詩織の様子を見に行くので一緒に行ってほしいと頼まれたのだ。私はその日日

直当番で、もう一人の日直の戸田君という男子生徒も一緒だった。

「はい、行きます」

 私は大喜びで返事をした。詩織に会いに行けるなら、もっと難しい頼みでも引き受

けていただろう。今日が日直当番で、本当によかったと思った。

「今日は俺、みんなと野球する約束だったんだけどな」

 戸田君はぶつぶつ文句を言っていたのだが、結局一緒に行くことになった。

 放課後、残暑の陽射しが照りつける中、私たちは詩織の家へと向かった。涼しく

なったとはいっても、昼の間はまだ

まだ暑い。なるべく太陽に当たらないよう、日陰を探しながら歩いた。それでも詩織

の家へ着いた時には、ハンカチで拭わなければならないほど汗をかいていた。

 玄関の扉を開けたのは、きれいな女の人だった。髪をふんわりカールさせ、薄く

化粧をしていた。

「わざわざすみませんでした」

 女の人はそう言って、先生に頭を下げた。

「お元気そうですね。身体の具合はいかがですか?」

「ええ、病気じゃないですから」

 先生と話す女の人を見つめながら、きっと親戚の人か何かなのだろうと私は思っ

た。詩織のお姉さんにしては大人すぎたし、お母さんにしてはあまりにも若くすぎ

た。

「詩織さんの同級生の戸田君と江崎さんです」

 先生が私たちの方を向いて言った。

「こちらは藤谷さんのお母さんよ」

 私は驚いて、もう一度女の人の顔を見つめた。こんなに若くてきれいなお母さん

がいるのかと思った。

「こんにちは、今日はどうもありがとう」

 詩織のお母さんがにっこり微笑んで言った。微笑むと、きれいな顔が華やいでも

っときれいになった。私はびっくりしたのと恥ずかしいのとで、

「こんにちは」

 と言うのがやっとだった。

「詩織ちゃん、先生とお友達が来て下さったわよ」

 お母さんが家の奥に向かって言った。その声が、ほんの少し高くなったように私に

は聞こえた。

「こんにちは」

 部屋から出てきた詩織に先生が声をかけた。

「ずっとお休みしてたから、どうしてるかなと思って来てみたのよ」

 詩織は返事をしなかった。大きな目を据えるようにして、こちらを見つめているだ

けだ。

「詩織ちゃん、ご挨拶は?」

 お母さんが詩織の顔を覗きこむようにして言ったが、詩織の口はぴくりとも動かな

い。

「詩織ちゃん・・・・・」

 更に何か言おうとするお母さんを先生が止めた。

「無理に言わせなくてもいいですから」

「・・・・・・すみません」

 お母さんは少し顔を歪めるようにして、小さく頭を下げた。

 家に上がった私たちは、板張りの広い部屋に通された。部屋に足を踏み入れる

なり、私は目を丸くした。どこを向いても、初めて目にするような物ばかりだった。中

央に据えられたレンガ造りの大きな暖炉、その前に並べられた布製の大きなソフ

ァ。窓にはフリルの付いたレースのカーテンが掛けられ、茶色で統一された家具の

上には、万華鏡のようにカットされたガラスの花瓶や陶製の犬の置物などが飾られ

ている。私は一瞬、お話の世界に迷い込んだような気持ちになった。やっぱりここ

はアリスの家だと思った。

 けれども、私が一番目を奪われたのは、部屋の隅に置かれていた籐製のゆりか

ごだった。白いフリルで縁取られたかごの中に、本物の赤ちゃんが眠っていた。

「メグミちゃんですね」

 先生が訊ねると、

「ええ。まだ目が離せないんで、昼間はここに置いているんですよ」

 お母さんが顔を綻ばせて答えた。

 赤ちゃんは口を少し開けたまま、ミルクの匂いを漂わせながらすやすや眠ってい

る。その姿が何ともいえず可愛くて、「可愛いね」そう言おうと詩織の方を向いた私

は、すぐに声を飲み込んだ。詩織はきつい目つきで、赤ちゃんを見つめていた。私

が顔を向けたことにも気づかないほど、強く強く一心に・・・・・・。その目には、私に

はわからない何かが込められているような気がした。私は声をかけるのをやめ、そ

っと視線を戻した。

 その後みんなでソファに腰掛けて、冷たいジュースを飲んだ。先生が授業の進み

具合を説明し、学校の話をした。

クラスのことは、戸田君がほとんど話をしてくれた。戸田君は話をするのが上手な

ので、私はただ相槌を打っているだけでよかった。

 学校の話が終わると、戸田君がお母さんに訊ねた。

「藤谷さんはどこから引っ越してきたんですか?」

 お母さんは何も答えずに、先生の顔を見た。

「藤谷さんのお家はもともとここだったのよ」

 先生が言った。

「でも、お父さんが仕事の都合で遠くへ行ってらしたから、ずっとお祖母さんが藤谷

さんの面倒を見てくださってたの。だから学校も、お祖母さんのお家の近くに通って

たのよ。そうよね藤谷さん?」

 詩織は黙って頷いた。だったらどうして転校して来たのだろう・・・・・・私は不思議

な気がした。それにお父さんがいなくても、お母さんはいただろうに・・・・・・。

「そういえば、お庭に犬小屋が見えるわね」

 先生が庭の方に目をやりながら言った。つられてみんな、庭の方に目を向けた。

芝生の広がる庭の隅に、白く塗られた犬小屋があった。

「犬を飼ってるの?」

 先生が訊ねると、

「はい」

 詩織は珍しく声を出して返事をした。

「何ていう名前か教えてくれる?」

「ジャック・・・・・」

「ジャックっていうんだ」

 先生はにっこり笑って頷くと、楽しそうに言った。

「じゃあ藤谷さん、戸田君と江崎さんにジャックを見せてあげてくれない? 二人と

も、ジャックが見たいと思うから」

「うん、見たい」

 戸田君はすぐに声を上げたれど、私は黙っていた。幼稚園の頃、放し飼いにされ

ていた近所の犬に追いかけられてから、私は犬が苦手だった。大人しい犬や小さ

な犬なら大丈夫なのだが、吠える犬や大きな犬はやはりちょっと怖かった。できれ

ばそうなってほしくなかったが、

「じゃ、行こう」

 詩織が嬉しそうに立ち上がったので何も言えなくなってしまった。

 私たちは靴をはき、庭へ出て行った。私はできるだけのろのろ歩き、二人と距離

を置くようにした。たとえ大きな犬でも、近づかないようにしていれば大丈夫かもしれ

ない。

「ジャック」

 詩織が呼ぶと、犬小屋から犬が走り出て来た。白い毛に栗色の毛が混じったコ

リーだった。

「わあ、ラッシーみたいだ」

 戸田君が嬉しそうに声を上げ、ジャックに駆け寄った。ジャックの方も相手が犬好

きだとわかるのか、尻尾を振りながらじゃれついてくる。戸田君の足にまとわり付い

たり、ゴムまりのように飛び跳ねたり、地面の上を転げまわったり・・・・・・。詩織も

歓声を上げながら、一緒になって走り回っている。よっぽど犬が好きなのだろうと私

は思った。一緒に遊ぶことはできなくても、その光景を見ているだけで私も楽しい気

持ちになれた。

 笑い声が響く中、詩織がふと私の方を向いた。

「どうして一緒に遊ばないの?」

「そうだよ。こいつ、すごく可愛いぜ」

 戸田君がジャックの頭を撫でながら言った。私は返事の仕様がなく、

「うん・・・・・・」

 と言ったきり黙ってしまった。

「犬が嫌いなの?」

 詩織の目がキラリと光ったような気がした。私は慌てて言った。

「嫌いじゃないよ、嫌いじゃないんだけど・・・・・・」

「わかった。江崎は犬が怖いんだ」

 戸田君が大きな声で言った。その声には、嘲るような響きがあった。

「犬が怖い奴がいるなんて、信じられないよなあ。こんなに可愛いのにさ」

 言いながら、戸田君はわざと見せつけるようにジャックの身体を抱き寄せた。ジャ

ックはクンクン鼻を鳴らし、盛んに尻尾を振っている。

「先に言ってくれればよかったのに・・・・・・」

 詩織の顔にも失望の表情が浮かんだ。私はこのまま駆け出して、家に帰ってしま

いたくなった。いつだってそうなのだ。ちょっと仲良くなれたと思っても、すぐに仲間

はずれにされてしまう。今までずっとそうだった。

「だって藤谷さんに悪いと思ったんだもん。ジャックが怖いなんて言ったら、悪いと思

ったんだもん」

 私は必死になって言った。目の中に、みるみる涙が盛り上がってくるのがわかっ

た。詩織はびっくりしたように、私の顔を見つめている。私は目をパチパチさせて、

涙がこぼれそうになるのを我慢した。泣いちゃだめ、泣いたら本当に嫌われてしま

う・・・・・・。私は胸が苦しくなり、今にも叫びだしそうになった。すると突然、本当に

突然、詩織がにっこり微笑んだ。