夏の贈り物1.
伊豆の下田駅から石廊崎灯台行きのバスに乗ること30分、青野川の河
口からゆるく弧を描いて続く白砂の美しい浜辺が弓ヶ浜である。下田から少
し距離があるせいか、大手ホテルが乱立したりレジャー産業が大々的に介入
して景観そのものを観光化してしまうということもなく、岩場のない波静かな浜は
ひっそりとした佇まいを見せている。
その静かな浜辺に一人佇み、先ほどからじっと海を眺めている少年がいた。
すらりと伸びた手足、端正な顔立ち、そして全体から醸し出される品の良さな
どを見ると、いかにも育ちのよさそうなお坊ちゃんという印象を受けるが、その
瞳は鋭い光を放っている。
神山大志、19歳、東京の山の手にある幼稚園から大学までエスカレーター
式に進学でき、世間では良家の子女が集まるといわれる朝霧学園大学の
一回生である。この浜辺で夏の休暇を過ごすために、昨夜遅く一家揃って東
京からやって来た。人気のない朝の浜辺に大志の姿は絵のように溶け込んで
いた。
大志が朝霧学園のエスカレーターに乗ったのは、今から十年ほど前、小学
四年生の時だ。その頃、父の営んでいた土木工事会社が突然飛躍的な成
長を遂げ、神山家が一躍金持ちの仲間入りを果たしたからだった。その頃を
境に、神山家の生活はがらりと変わった。3LDKの小さな建売住宅は、敷地
200坪建坪80坪の豪奢な邸宅に変わり、3台は有に入ると思われる大きなガ
レージには、運転手つきのベンツが止まるようになった。人件費節約のため
に会社の経理を担当していた母も、二人のお手伝いを従える奥様に変身した。
その変化は、神山家の子供たちにも訪れた。4歳年上の長女静香はお嬢
さん学校として名高い白藤女学園へ進学し、2歳上の長男秀志と次男の大
志は朝霧学園に編入させられた。紺のブレザーに半ズボン、白いワイシャツと
えんじのネクタイ。生まれて初めて着る制服は、まるで七五三の晴れ着のよう
だった。おまけにランドセルや帽子、手提げ袋にいたるまで学園の校章が入っ
ている。これから毎日こんな格好で学校へ通わなければいけないのかと思うと、
子供心にもうんざりしたのを覚えている。
そして初めて朝霧学園を訪れた時、大志はこの学校の生徒はみんな同じ
顔をしているのかとびっくりした。制服や鞄と同じように、どこかの工場で生産
され、ここへ送り込まれて来る。前髪を上げて見たら、おでこに校章が印刷さ
れているのではないか・・・そんな気にさせられる程、彼らはみんな同じような雰
囲気を纏っていた。
そろいの制服を着てきちんと机に向かっている生徒たちは、決して廊下で取
っ組み合いをしたり、掃除の時間に箒でチャンバラごっこをしたり、授業中に
前の席の生徒にいたずらをしかけたりするようなことはなかった。みんないい子
になって、先生の言いつけをきちんと守っていた。まして、生徒同士で言い争
ったり小突きあったりする姿は皆無だった。
大志は不思議でならなかった。こいつらは、お腹の底から笑いあったり、どう
にも我慢が出来ないほど腹を立てたり、涙が出るほど悔しがったりすることが
ないのだろうか。大志がそれまで通っていた学校では、取っ組み合いの喧嘩
をしたり、いたずらをして先生に叱られたリという光景が、毎日のように見られ
たものだ。もちろん、いじめや学級崩壊とかいうのではなく、子供同士の些細
な喧嘩やいたずらが日常の出来事として行われていたということだ。
その疑問は、すぐに不信感へと変わった。こいつらは、誰も本当の顔を見
せてはいない。にこにこと邪気のない笑顔の下に、本心を隠しているのだ。そ
んな奴らを信用してなるものか。大志は一人殻の中に閉じこもり、ただその方
が学校生活を送る上で都合がいいという理由から、邪気のないにこにこ笑い
というものを身につけた。
そして今、その不信感は確かな嫌悪感へと変わっていた。本当の意味で、
笑うことも怒ることもせず、ただ自分の前に敷かれたレールの上を大人しく進
んでいくだけの奴ら。奴らには何かが欠けている。俺はそんな奴らとは違うん
だ。
けれども、大志が最も嫌悪しているのものは、彼らではなく、自分の家族だっ
た。神山家の生活に訪れた急激な変化は、家族の人間性まで変えてしまっ
たようだった。父の雄造は、会社が飛躍的な成長を遂げた今、それを守ること
しか考えられないような人間になってしまった。会社を守るためならどんな犠牲
も厭わない・・・雄造にはそういう冷酷さがあった。
以前は頻繁に行き来していた昔の商売仲間との付き合いも一切なくなって
しまったし、時折仕事上のことで助けを求めてくることがあっても力を貸そうと
はしなかった。その為に、昔の仲間が窮地に陥ったとしても、何の気持ちも湧
かないようだった。その癖、現在の得意先には身を削ってでも尽くすという姿
勢を取っていた。
母の絹子の場合は、それがもっとあからさまな形となって表れた。奥様に変
身した母は、娘や息子の学校のPTAの役員を買って出て、毎年年間の授
業料をはるかに超える額の寄付をすることを忘れなかった。そして月に何回か、
生徒たちの親を招いてホームパーティーを開く。もちろん招待客は、前もって
綿密に調査して選ばれ、神山家の応接間はさながらちょっとした名士の社交
の場と化していた。
名門女子校へ進学した姉の静香は、生まれた時からそうして育ったとでもい
うように、
「わたくしもそう思いますわ」
などと、もったいぶった喋り方をするようになり、ただの我儘で気位が高いだ
けの女になってしまった。女子大を卒業してからは、これといった目的もなく毎
日遊び暮らし、次々と持ち込まれる縁談話にもなかなか首を縦に振ろうとしな
かった。
家族の中では、兄の秀志が一番まともだと大志は思っている。父のように倣
岸冷徹に振舞うこともなかったし、母や姉のように上品ぶったりすることもない。
ただ、兄にはそういう家族を批判できるようなバイタリティというものがないのだ。
朝霧学園の生徒たちと同じように、ただ目の前に敷かれたレールの上を大人
しく進んでいるにすぎない。
大志はそういう家族にうんざりしていた。あいつらは、日本の資本主義社会
に巣食うゴキブリみたいなものだ。一片の尊敬にも値しない。もし日本に革命
が起こったら、真っ先に処刑されるのはあいつらみたいな人間だ。その前に、
俺がこの手で処刑してやろうか・・・。ふと、そんな考えに取り付かれることもあ
った。
大志がこの浜辺で夏の休暇を過ごすのは、これで4度目だった。3年前の
夏、父の雄造がこの浜を見下ろす高台に、プライベートビーチ付の大きな別
荘を建てたのだ。それ以来、神山家では毎年夏の休暇をこの浜辺で過ごす
ことが恒例となっていた。
もっともここにいる間、大志は家族とは別行動を取っていた。母や姉は友人
たちを招いてパーティーを開くことに夢中だし、父や兄は得意先の接待に忙し
く、のんびり休暇を楽しんでいる暇などないようだった。一家揃って夏の休暇を
過ごすという名目で建てられた別荘も、結局は母や姉の虚栄心を満足させ、
父の仕事の道具として使われるものでしかなかった。
大志は毎日一人で浜へ降りて行き、日が暮れるまで泳いだり散歩をしたり
して過ごした。3日もすると、浜辺に並んだ海の家や、バス停の前の商店の人
たちとも顔見知りになり、貸し出し用のゴムボートに空気を入れたり、ラーメン
やカキ氷を運ぶ手伝いをするようになった。ここでは朝霧学園の生徒であるこ
とも、神山建設の次男であることも関係ない。ただ、空と海と焼けつくような日
差しの中に、自分という一人の人間がいるだけだった。この浜辺で過ごしてい
る間だけは、大志も嫌悪感や破滅的な考えを忘れることができた。
ある時、海の家の親父さんに聞かれた。
「お前は一体どこに住んでるんだ?」
それは大志が最も恐れていた質問だった。せっかく嘘で塗り固められたよう
な家族を忘れて、この浜の住人になったつもりでいたのに何もかも台無しにな
ってしまう。大志は身体中にたぎってくる嫌悪感を抑えつけながら、無言で高
台に建つ白い建物を指差した。
「ああ、神山御殿に住んでいるのか」
地元の人々に、神山家の別荘はそう呼ばれていた。それも、大志の嫌悪感
を募らせる原因の一つになっていた。
「神山御殿」
その名を口にする時、地元の人々の顔には、尊敬や羨望といったものの他
に、必ずある種の侮蔑が含まれていることに大志は気付いていた。
東京の成り上がり者が、いい気になって建てた御殿のような別荘・・・大志
には、地元の人々が陰でそう言って嘲笑っているのが聞こえるような気がした。
あんな別荘など、家事にでもなって燃えてなくなってしまえばいい・・・大志はま
た、破滅的な考えに取り付かれた。
すると、親父さんが言った。
「お前、神山御殿でどんな仕事をしてるんだ?」
大志には、その意味がすぐにはわからなかった。
「庭掃除か? それとも別荘番か?」
「まさか、料理番じゃないわよねぇ」
おかみさんが笑って言った。彼らは、大志を別荘の使用人だと思ったのだっ
た。
無理もない。神山家は地元の人たちとの付き合いはほとんどなかったし、出
かける時はいつも運転手付のベンツ。その後部座席に大志が座っているのを
見かけたことがあったとしても、目の前にいる色あせたTシャツとジーンズ姿の
少年が、同じ人間だとは誰も思わないだろう。
大志は嬉々として答えた。
「雑用係だよ。特に何をするって決まってるわけじゃなくて、庭の手入れをした
りプライベートビーチを掃除したり、神山家の人たちが快適に過ごせるよう準
備をする役目なんだ。だから仕事は午前中で終わっちゃって、昼間はこうして
自由にしてられるってわけ」
すらすらと言葉が出てきた。
「へぇ〜、偉いんだね。今時の若い者にしちゃ、珍しい働き者だよ」
おかみさんが感心したように言った。
「だけどあんた、まだ高校生ぐらいの歳だろう? どうしてそんなに働かなきゃい
けないの?」
その質問も、大志は難なくクリアした。
「俺の親父はアル中でね。病院を出たり入ったりしてるような奴なんだ。お袋が
スーパーのレジ係をしてずっと生活を支えてくれてたんだけど、過労が原因で
倒れちゃったんだよ。だから少しでもお袋に楽させてやりたくて、働くことにした
んだ。でも今時高校も出てないんじゃ、ろくな仕事につけないだろう? それで
世話してくれる人がいて、高校に通いながら神山家の雑用係として雇ってもら
うことにしたんだよ」
「そうだったの・・・」
おかみさんは少し涙ぐんでいた。親父さんもそうだった。そして自分でも驚い
たことに、大志の目頭にも何やら熱いものがこみ上げてきていた。
「だけどあんたも、随分ひどい父親を持ったもんだねぇ。女房を散々働かせた
上に、今度は息子にまで大変な思いをさせるなんて・・・」
「そんなことないよ」
大志はおかみさんを元気付けるように言った。
「俺は親父のこと、恨んでなんかないよ。親父は悪い人間じゃないんだ。お酒
を飲まない時は、お袋や俺にもすごく優しいし。ただ、親父はちょっと気が弱い
だけなんだよ」
大志の表情は真剣そのものだった。でたらめを言っているうちに、本当にそう
いう父親を持っているような気持ちになってきたのだ。
「あんたは優しい子なんだね」
おかみさんが鼻を啜りながら言った。
「別荘が暇な時は、いつでもここへおいで。自分の家だと思って、何でも好きな
ものを食べていいし、手伝ってくれた分はちゃんとバイト料を払うよ。ねえ、あん
た?」
「ああ、そうさ。遠慮しないで、いつでもくればいいよ」
親父さんは涙を隠すように、そっぽを向きながら頷いた。二人の言葉に、大
志は心からの感謝を込めて答えた。
「ありがとう。こんなに優しい人と出会えて、親父やお袋もきっとすごく喜んでく
れると思うよ」