アリスの家6.


 

 

 その日を境に、詩織は私と口を利かなくなった。教室で顔を合わせても知らんぷ

りをしていたし、廊下ですれ違っても目を合わせないようにしていた。偶然目が合

いそうになった時には、髪が揺れるほどの勢いで顔を背けた。あまりの変わりよう

に、周りの生徒たちの方が驚いたようだった。

「詩織ちゃんと喧嘩でもしたの?」

 こっそり訊ねてくる女子生徒もいたけれど、私は何も答えなかった。詩織とのこと

は、誰にも話したくなかったし触れられたくなかった。

 私はまた一人で遊ぶようになった。一人で人形を動かしてお話を作り、自転車に

乗って一人で探検に出かけた。一人で遊ぶのは楽しかった。みんなと同じにする

必要はなかったし、それを命令するような人もいなし。おかしなことを言って笑われ

はしないかと、びくびくすることもなかった。私はいつも私でいられた。それでも

時々、ふっと淋しさのようなものを感じることはあった。面白いお話を思いついた

時、思いがけない風景に出会った時、私は無性に誰かに話したくなった。

 終業式の日が来た。私の通っていた学校では、二年ごとに組替えが行われてい

た。当然四年生だった私たちも、その対象になっていた。

「二年間一緒に勉強してきたお友達とも今日でお別れです。ちょっと淋しいと思って

いる人もいるかもしれませんが、また新しいお友達と仲良くしてくださいね」

 学級活動の最後に清水先生が言った。みんな神妙な顔で聞いていたけれど、私

は少しも淋しいとは思わなかった。私は早く五年生になりたかった。早く五年生にな

って、全然知らない生徒たちと新たな学校生活を始めたかった。

 学年末は図工や算数の教材、テストのプリントなど、持って帰らなければならない

ものが多い。私はその整理に手間取り、帰るのが遅くなってしまった。私が教室を

出た時、他の女子生徒はもう誰も残っていなかった。まだその辺にいるかもしれな

いと、私は足早に廊下を歩いて行った。そして階段の手前まで行ったところで、思

わず足を止めた。階段の踊り場に、詩織が一人で立っていた。

 詩織は私に気がつくと、はっと身体を強張らせ、探るような目を向けてきた。私も

何となく身構えて、詩織の顔を見つめ返した。仲違いしてから、こんな風に面と向か

いあうのは初めてだった。詩織は何か言いたそうに、私の顔を見つめている。なの

になかなか、口を開こうとはしない。私はだんだん、見詰め合っていることに耐えら

れなくなってきた。

 私は足元に目を落とし、階段を下りていった。詩織が見ているのはわかったが、

気がつかない振りをしていた。偶然目が合いそうになっただけで顔を背けてしまう

詩織が、私に用があるとは思えなかったからだ。また怖い目つきで睨まれて、嫌な

思いをしたくはなかった。踊り場まで下りていった時、詩織の身体が動いたのが目

の端に見えた。私はとっさに横を向き、残りの階段を駆け下りた。そのまま靴箱の

ところまで駆けて行き、靴を履き替えて校舎の外に飛び出した。一度も立ち止まら

なかったし、振り返ることもしなかった。

 

 私が詩織に会ったのは、それが最後だった。春休みが終わって学校へ行ってみ

ると、詩織はお父さんの仕事の都合で遠くへ引っ越してしまっていた。私はそれを、

詩織の家の近所に住む女子生徒から聞いた。そして、あの若くてきれいなお母さん

が、詩織の本当のお母さんでないということも聞かされた。本当のお母さんは、詩

織がまだ小さい頃に病気で亡くなったらしかった。

 私はすぐに詩織の家まで行ってみた。「藤谷」という表札はそのままだったけれ

ど、家中の雨戸が閉め切られていた。庭の隅の犬小屋にも、ジャックの姿はなか

った。人が住んでいないのは一目瞭然だった。詩織は仲直りをするために、私を

待っていたのかもしれない……無人になった家を眺めながら、私は終業式の日の

ことを思い出した。一人で立っていたことも、何か言いたそうにしていたことも、そう

考えると納得できた。私は逃げるように帰ってしまったことが、悔やまれてならなか

った。どうしてあの時、詩織が口を開くまでまっていなかったのだろう。そうすれば、

仲直りができたかもしれなかったのに……。私は詩織の身の上に心を痛め、仲

直りできないまま別れてしまったことを後悔した。

 けれども、それは一時のことだった。五年生に進級して、私の学校生活は一変し

た。仲のよい友達が二人もでき、毎日一緒に遊ぶようになった。それまでと違い、

勉強も難しくなってきた。目の前のことで頭が一杯で、詩織のことを思い出している

暇などなかった。

 それだけではない。私はだんだん人形遊びをしなくなっていった。自転車に乗って

探検に出かけることもなくなった。そんなことをして遊ぶより、友達とお喋りをしてい

る方が楽しいと思うようになっていた。私は少しずつ、詩織のことを忘れていった。

偶然とんがり帽子の屋根の家の前を通った時だけ、ぼんやり詩織のことを思い出し

た。そして、小学校を卒業した年に別の街に引っ越してしまうと、もう詩織のこともと

んがり帽子の屋根の家のことも思い出すことすらなくなった。

 長い間、私は詩織のことを忘れていた。時代の変化とともに街のあちこちに洋館

風の家が立ち並ぶようになったけれど、それを見てとんがり帽子の屋根の家を思

い出すようなこともなかった。私は大人になり、恋愛をして結婚をした。自分でも意

外なほど、普通の女性がたどりそうな道をごく普通に歩んでいた。

 私が再び詩織のことを思い出すようになったのは、二人目の子供が産まれてしば

らくしてからだ。きっかけが何だったかはよく覚えていない。ただ、帰りの遅い夫を

待ちながら一人で夜を過ごす時、一つのおもちゃを奪い合って泣き喚く子供たちを

何とか寝かしつけた時、私はふっと詩織のことを思い浮かべた。詩織は今、どうして

いるのだろう。やはり結婚して、家事と育児に追われているのだろうか。それともキ

ャリアウーマンとして、忙しく働いているのだろうか。

 大人になった詩織を想像できない私は、自然と子供の頃の思い出へと心を移して

いく。毎日一緒に遊んだこと、トイレに行くのまで一緒だったこと、喧嘩をしてはすぐ

に仲直りをしていたこと、大きくなったら一緒に外国へ行ってお姫様の住んでいたお

城に住もうと約束したこともあった。思い出の中の私たちは、今でも小学四年生の

ままだ。詩織を思い出す度に、私も十歳の子供に帰った。そして最後はやはり、終

業式の日のことを苦く思い出さずにはいられなかった。どうしてあの時、詩織が口を

開くまで私は待っていなかったのだろう。そうすれば、仲直りができたかもしれなか

ったのに……。

 あの頃、詩織は私の憧れだった。花のように愛らしく、いつも堂々としていて誰よ

りも強い……アリスの家に住むアリスそのものだった。けれどもこうして振り返って

みると、それはみんな私の一人よがりだったような気がする。本当の詩織は、そん

なに強くなかったのかもしれない。だから思い通りにならないことがあると、癇癪を

起こさずにはいられなかったのだろう。思い通りになっていれば、傷つかずにすむ

とでもいうように……。あの頃の私にそれがわかっていれば、もう少しうまく詩織と

つき合えたかもしれない。少なくとも、あんな別れ方をしなくてすんだはずだと思う。

 いや、それは本当ではなかった。終業式の日、私は心のどこかで、詩織が仲直り

をしようとしていることに気付いていたはずだった。だからこそ、逃げるように帰った

のだ。私は仲直りをしたくはなかった。仲直りをしたら、ようやく浮かび上がりかけた

水の中へ、再びずぶずぶと沈みこんでいくような気がした。私はもう、暗くて冷たい

水の中へ沈みこんでいくのは嫌だった。上へ上へと浮かんでいきたかった。果たし

てそれは、いけないことだったのだろうか。

 そこまで考えると、私はいつも自嘲気味に笑ってしまう。何もかも終わったことな

のだ。遠い遠い昔のことなのだ。今更思い出してみたところで、どうにかなるような

ことではなかった。家事と育児に追われる毎日で、私は少し疲れているのかもしれ

ない。そうでなければ、こんな昔のことを思い出したりしないだろう。私には、頼りに

なる夫と可愛い二人の子供たちがいるのだから……。

 だけどもし、科学が飛躍的な進歩を遂げて時間の壁を自由に行き来できるように

なったとしたら、私が超人的な超能力でも身につけて過去と対話することができる

ようになったとしたら、あの頃の私たちに一つだけ伝えたいことがある。

 終わりのないものなんてないんだよ。良い事も悪い事も、終わりのないものなんて

ないんだよ、と……。