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アリスの家1.


 

  それは、今から20年以上も前、私がまだ小学4年生の夏休みのことだ。自転車

に乗って公園に遊びに行 った帰り道、私は一軒の家を見つけた。

 その家は、他のどんな家とも違っていた。壁の色が白く、何か魚の鱗のような模

様がついていて、玄関の扉には小さく区切られた色のついたガラスがはまってい

た。道路との境に垣根はなく、白く塗られた柵の向 こうに緑の芝生が広がっている

のが見えた。一番印象的だったのは屋根だ。茶色の瓦が敷き詰められた 屋根の

真ん中に、もうひとつとんがり帽子のような小さな屋根が乗っていて、外に向かって

大きく窓が開かれていた。まるで・・・そう、不思議の国のアリスが住んでいるような

家だった。

 その辺りは、今なら武蔵野の自然と趣きを残す閑静な住宅地とでも、不動産屋の

広告に謳われそうな場所だった。近くには店もなく、ただ道の両側に生け垣に囲ま

れた家々が並んでいるだけ。あたりはいつもしんとしており、風が吹くと生け垣や庭

の木々がざわざわと音を立て、一人で歩いていると昼間でもひやりと冷たいものを

背中の辺りに感じることがあった。

 私がその街に住むようになったのは、幼稚園に入る少し前のことだったと思う。家

族は四歳年上の姉と父と母。住んでいた家は、古い平屋の和風住宅だった。玄関

は格子の入ったガラス戸で、襖で仕切られた和室が板張りの廊下に沿って並んで

いた。家の中は昼間でも薄暗く、壁や床にはかび臭いような湿っぽい匂いが染み

付いていた。その匂いは、どんなにお天気のいい日でも完全に消えることはなかっ

た。庭の木々は旺盛すぎるほど葉を茂らせ、陽の当たらない池の中ではのたくるよ

うに鯉が泳いでいた。

 どうしてそんな古い家に移り住んだのか私にわかるはずもなかったが、もしかした

ら裏庭にあった納屋のように大きな物置のせいだったのかもしれない。その頃、父

は勤めていた役所をやめ、事業を始めたばかりだった。物置の中には、何か切っ

たり穴を開けたりするような機械がいくつも置いてあり、部品のようなものが詰めら

れた箱がうず高く積み上げられていた。「社長さん」や「職人さん」と呼ばれる人たち

を家に招き、食事やお酒を振舞うこともあった。そういう時は夜遅くまで、喋ったり笑

ったりする声が家の中に響き渡っていた。母が文句を言うと、父は決まってこう言っ

ていた。

「こういうことが後で実を結ぶんだよ。この家だって、今に立派な御殿に建て替えて

見せるさ」

 けれども、いつまでたっても家が建て替えられることはなかった。家の中は薄暗い

ままだったし、湿っぽいような匂いは年々強くなっていくように思われた。私は子供

ながらにも、何か重苦しいものを感じずにはいられなかった。この家全体を包んで

いる、暗く重たい空気……その空気は、私たち家族の心の中にも少しずつ染み込

んでいくような気がした。

 古かったせいか、私の家の天井裏には、まだねずみが棲みついていた。昼間は

大人しくしているねずみたちも、私たちが寝静まる頃になると天井裏を駆け回った

り、台所の辺りをうろちょろしたりすることがあった。そのためは母、時々金属製の

檻のようなねずみ捕りを仕掛けた。夜、チーズのかけらをつけたねずみ捕りを仕掛

けておくと、翌朝には丸々としたねずみが生け捕られている。母はねずみ捕りごと

裏庭の井戸端へ持って行き、水を貯めたバケツの中にじゃぼんと沈める。ねずみ

はしばらく暴れているが、段々動きが鈍くなり動かなくなってしまう。引き上げられた

ねずみは、ただの黒い塊になっている。

 初めてそれを見たとき、私は思わず泣いてしまった。どうしてそんなことができる

のか、信じられなかった。

「どうして泣くのよ」

 母に聞かれ、私は泣きながら答えた。

「だって可哀そうじゃない」

 私はねずみが大嫌いだった。いつ扉の隙間からねずみが走り出てくるかと気が

気ではなく、一人で台所へ行くのも怖いくらいだった。でも、それでもやっぱり、た

だの黒い塊になってしまったねずみを、私は可哀そうだと思った。

「可哀そうなんかじゃないわよ」

 母が苛立たし気に言った。

「放っておいたら、台所中食い荒らされちゃうじゃないの」

「そうだよ。ねずみを退治するのは、いいことなんだから」

 姉の五月が当然のことのように言った。

 私は何か言い返したかったが、何も言い返せなかった。母が姉の言葉に同意す

るのがわかっていたからだ。姉の言うことは正しくて、私の言うことは間違ってい

る。いつだってそうだった。どうしてそうなるのかわからなくて、母に聞いてみたこと

がある。

「どうしてお母さんは、お姉ちゃんの見方ばっかりするの?」

 母はたちまち顔を強張らせ、強い口調で言った。

「そんなことないわよ」

 けれども、姉が母のお気に入りであることは間違いなかった。姉は、毎年学級委

員に選ばれるような優等生だったし、私のように怖がりでも泣き虫でもなかった。そ

れに、姉は決して、母を怒らせるようなことを言ったりしたりするようなこともなかっ

た。どういうわけか、私が何か言ったりしたりすると、母はひどくいらいらするらしか

った。

「少しはお姉ちゃんを見習いなさい」

 母は何かにつけてそう言った。

 私は姉のようになりたくて、姉の真似ばかりしていたことがある。喋り方から歩き

方、箸の使い方や手の洗い方まで真似をした。

「弥生が変な目で見るの」

 ある日、姉が母に言いつけた。

「どうしてそんなことするのよ」

 母は声を尖らせて怒った。

「そんなことされたら、誰だって嫌に決まってるでしょ」

 母の剣幕に押され、私は声が出せなくなってしまった。

「お姉ちゃんに謝りなさい」

 母の声が大きくなればなるほど、私の心臓は縮み上った。

「強情っぱり」

 いきなり平手が飛んできて、バシッという音がした。鋭い痛みが、左耳から唇まで

広がった。

「あんたはお父さんそっくりよ。お母さんを困らせるようなことしかしないんだから。お

姉ちゃんの味方するの、当たり前じゃない。あんたなんか味方しようと思っても、で

きっこないでしょ」

 投げつけるように言い、母は部屋を出て行った。私は身体を折りたたむようにし

て、部屋の隅にうずくまっていた。叩かれたところが、じんじんと痛かった。だって、

お姉ちゃんみたいになりたかったんだもん。お姉ちゃんみたいになって、お母さんを

喜ばせたかったんだもん……しゃくりあげて泣きながら、私は心の中で何度も繰り

返した。

 その頃の私には、仲の良い友達もいなかった。遊び相手といえば、誕生日に買っ

てもらったリカちゃん人形と、姉のお古の自転車だけだった。私はいつも一人で遊ん

だ。自転車の乗り方でさえ、近くの空き地で一人で覚えた。もっとも、私は時々退屈

することはあっても、それを淋しいと思うことはほとんどなかった。一人なら、仲間は

ずれにされる心配もないし、意地悪をされる心配もない。それに、一人の方がず

っと楽しく遊ぶことができた。

 私は人形を動かして、お話を作るという遊びが大好きだった。お話の中でなら、私

はどんなふうにでもなれた。クラスで一番明るくて活発な女の子になることもできた

し、勉強もスポーツもできる優等生になることもできた。いじめっ子にだって、敢然と

立ち向かうことができた。その遊びに、友達はむしろ邪魔だった。

 もう一つ、私が好きだったのは、自転車に乗って探検に出かけることだった。一人

遊びに飽きると、私はよく自転車で出かけた。当時はまだ車もそれほど多くなく、大

通りに出さえしなければ、子供でも自由に自転車を乗り回すことができた。沢山の

木々に囲まれた公園、芝生の中に立つ教会、突然目の前に広がるキャベツ畑

……。あてもなく走っているだけで、いろんな風景に出会うことができた。そして、そ

の家を発見したのだ。

 初めてその家を見つけた時、私の目はしばらく釘付けになってしまった。白い柵に

白い壁、色のついたガラスやとんがり帽子の屋根……。その家の持つ雰囲気に、

私は強くひきつけられた。そこには、私が想像したこともないようなお話が、一杯詰

まっているような気がした。

 それから自転車で出かける度に、私はその家の前を通るようになった。とんがり

帽子の屋根の窓は、開いていることもあれば閉まっていることもあった。あの窓か

ら、どんな景色が見えるのだろう。この家には、どんな人が住んでいるのだろう。私

はその家を眺めながら、様々な想像を巡らせた。